世界を見る視線が変わる。国木田独歩『武蔵野』から得られるもの【三分で読める名作劇場 #5】

偉大なる文豪たちが遺した、名作文学の数々。社会人ともなれば、教養としてある程度は読んでおきたいもの。けれど、忙しさやハードルの高さを言い訳にして、なかなか手がつけられていない人もいることでしょう。そんな人たちに向けて、文豪の作品に詳しい文筆家の菊池良さんが、押さえておくべき名作を一冊ずつ解説します。第5回で取り上げるのは、国木田独歩の『武蔵野』です。

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街へ出て小さな物語を見出した国木田独歩

自然主義文学の先駆として輝く国木田独歩の『武蔵野』は、当時(1898年)の武蔵野を散歩することを独歩が激推しする随筆です。独歩は渋谷村の一角に住んでいたことがあり、そこからあてもなく散歩することが好きだったのです。

独歩は今の武蔵野の美しさを書きたいと文章にしていきます。落葉林の美しさを説き、武蔵野で散歩することの楽しさをあの手この手で伝えようとするのです。

さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。

独歩はロシアの文学者ツルゲーネフが書いた『あいびき』を引用します。『あいびき』のなかで描写されているロシアの落葉林の美しさが、武蔵野の落葉林の美しさと通じていると言うのです。まさかロシア文学を読んで、武蔵野の美しさを見出すとは。目からうろこです。

ほかにも筆を進めながら、自らの日記を引用し、与謝蕪村の俳句を引用し、ワーズワースの詩を原文のまま引用し、朋友の手紙を引用していきます。独歩の書きぶりはとても自由です。まるで散歩をしているかのように。

武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当もなく歩くことによって始めて獲られる。

そうそう、散歩は気まぐれに歩いていって、なにか想像もしなかったものに出会うから面白いんですよね。独歩は武蔵野なら、どこへ行ってもなにか美しいもの、感じ入るものがあると断言しています。

独歩は武蔵野を気まぐれに歩いているだけで、空き地の横に咲いた花、枝のうえで鳴く小鳥、小さな谷に隠れた細長い池といった景色に出会えると言います。

自分は武蔵野を縦横に通じている路は、どれを選んでいっても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。

なぜ武蔵野の光景が胸を打つのかというと、それは生活と自然が融合した社会の縮図がそこにあるからではないかと独歩は言います。そして、そこに隠れている「物語」を感じ取るからだと言うのです。

田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。

なるほど、ふと見た光景に隠れている「小さな物語」。たしかに散歩をしていると、「小さな物語」をたくさん目にします。

独歩は『忘れえぬ人々』という小説も書いています。これは無名の文学者である大津が、旅先の宿場で「忘れえぬ人々」を語るという内容です。「忘れえぬ人々」とは、たまたま見かけた赤の他人だけれど、なぜか忘れられない人のことをいいます。

大津があげるのは、引き潮の海辺にいるかごを持った男、活気ある港町のなかで誰にも顧みられることなく琵琶を弾く僧侶といった、ほんとうに一瞬だけ見かけた赤の他人。

これは『武蔵野』のなかで語られる「小さな物語」そのものといっていいでしょう。

独歩はたまたますれ違うような人の「小さな物語」を大事にしていたのです。

国木田独歩を読むと、世界の見方が変わる

独歩の「武蔵野」を見る観察眼は、どうやって磨かれたのでしょうか。それはツルゲーネフを読むことによってです。『武蔵野』のなかでも引用されているツルゲーネフは19世紀のロシアの小説家で、『初恋』や『父と子』といった作品を残しました。独歩は二葉亭四迷が翻訳したツルゲーネフの『あいびき』を読み、その自然描写に感銘を受け、その手法によって武蔵野の地を描写したのです。

このことからわかるのは、新しいものを取り入れることによって、世界そのものの見方が変わるということです。

独歩と同時期に出てきた島崎藤村、田山花袋、徳田秋声といった作家は「自然主義文学」と呼ばれました。彼らはみんな同年代で、「竜土軒」という西洋料理屋に集まっては交流する「竜土会」というグループを作っていました。そのグループがそのまま新しい文学を作ることになったのです。彼らが書いたのは自然風景や人間の内面をより写実的に書くという、それまでの日本になかった文学でした。

ツルゲーネフの作品に触れ、竜土会の面々たちと審美眼を磨くことによって、独歩は武蔵野の自然に美しさを見出したのです。

そして、それは私たちが独歩の作品を読むことによっても、追体験ができます。『武蔵野』や『忘れえぬ人々』を読んだあとに街を歩いてみると、それまでとは違ったものが見えてくるはずです。

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『武蔵野』
著者:国木田独歩
新潮社

文=菊池良
文筆家。文豪たちの作品を愛し、それにまつわる書籍を執筆。主な著書に『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』『もし文豪たちがカップ焼きそばの 作り方を書いたら 青のりMAX』『芥川賞ぜんぶ読む』など。@kossetsu

編集=五十嵐 大+TAPE

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