会社が何もしてくれない…がすべての元凶。ソラシド・本坊元児が脱・東京で学んだキャリアを「更新」する術

今回は20年以上の芸人キャリアを持つソラシド・本坊元児さんが登場!2018年に「住みます芸人」として山形へ移住して以来、地域密着の芸能活動をベースにしながら活躍のフィールドを広げ続けています。

「麒麟」や「アジアン(2021年6月解散)」と同期のソラシド・本坊元児さん。同期たちが次々と売れていくなか、皮肉にも本坊さんは“お笑い”ではなく、“バイト芸人”として大工バイトの愚痴を話す人として注目されるようになりました。

過酷なアルバイト生活についてつづった『プロレタリア芸人』(扶桑社)も出版されますが、「所詮、バイトのことやん、芸人として出てへんやん」と、芸人としての自身のキャリアを見つめ直します。

そんなとき、吉本興業が手がける「あなたの街に住みますプロジェクト」の話が持ち上がり、「芸人を続けられるなら……」と、山形移住を決意します。新しい大きな決断をしながらも、夢を諦めずに挑戦し続けるソラシド・本坊元児さんに、夢を諦めないために必要なことについて伺いました。

※インタビュー後編はこちら
視野が広がったことがキャリアを見直すキッカケになった。ソラシド・本坊元児が考える仕事の本質と向き合い方

東京へ行って「リセットしたい」。大阪で感じた焦燥感

――デビュー当時、大阪には劇場のレギュラーもあり、芸人の仕事も多かったそうですが、大阪に残らず、上京を選んだ理由は何ですか。

大阪の劇場で漫才をしていた頃は、漫才の稼ぎだけで月に10万円以上あり、毎日それなりに充実した日々を送っていました。でも、「うめだ花月」がなくなったり、そのあとできた「京橋花月」の客入りが悪くなったり、「このままではいけない。何とかして状況を変えなければ…」と思うようになり、次第に焦りを感じ始めていました。

大阪では麒麟、アジアン、笑い飯と一緒に仕事をしていましたが、彼らは次々と東京へ進出を決め、どんどんステップアップをしていきます。それに比べて僕たちは大阪での仕事もままならず、このまま大阪に居続けても先が見えない状態でした。

同期で大阪時代多くの時間をともにした麒麟・川島明さんと(2005年)

 

同期たちが次々と売れていくのに、僕らは「ソラシドって誰やねん」と笑いが起きるような知名度の低さでした。吉本のスタッフからも「お前たちが東京に行ってどうするんだ」と言われたんですが、周囲の変化からくる焦燥感から気持ちを収めることができず、東京行きを決めました。

――大阪に残って、もう少し知名度を上げてから上京するという選択肢もあったと思います。

当時の僕は、仕事を用意してくれるわけでもないのに「大阪に残れ」と言う会社に対して、不信感を抱いていました。大阪に残そうとするのは、業務上の手続きが面倒くさいからではないだろうか、とさえ思ったりもしました。

あと、大阪のローカル番組には東京進出した芸人が呼ばれることが多く、大阪に残って活動していても、簡単にはテレビの出演枠を勝ち取ることはできないと思っていました。東京進出していく同期たちに遅れを取りたくなかったですし、彼らと一緒に仕事ができたら楽しいだろうなと。

そして、大阪の環境をリセットして心機一転、東京でリスタートしたかったという気持ちがありました。

芸人仲間とのひとコマ。ソラシド、麒麟、馬場園さん(元アジアン)はNSC20期生の同期

 

憧れの東京生活と「職業・芸人」の肩書き

――決意を新たに上京した後、どのような気持ちの変化がありましたか。

東京での生活はとても刺激的で、最初のうちはその楽しさに心躍りました。芸能人も国会議員もここにいるんだと思うと胸が高鳴りました。

仕事は、幸いなことに芸人としてのキャリアがあったので、始めのうちは「ルミネtheよしもと」に出演させてもらえる機会に恵まれましたが、芸人は実力の世界。毎年のようにM-1ファイナリストが生まれるので、どんどんと劇場の出演枠は減っていきます。

漫才の仕事が減るのにつれて、徐々にモチベーションが下がり、バイトの時間が増えていきました。

建設現場のバイトでは、バラエティの雛壇も組み立てることも

 

――上京後もバイト生活が続いたのですね。仕事が上手くいかないときにしていた発言や行動など、当時を振り返ってみて気づくことはありますか。

会社に「何か仕事はありませんか?」と尋ねても、期待するような返事は返ってきません。漫才の仕事が減ったことで、バイトで生計を立てるしかなくなってしまったのですが、今考えると「職業・芸人」という肩書きにしがみつくためだけにバイトをしていたような気がします。必死でもがいてはみるものの、その努力が身を結ぶことはなく生活も気持ちもどんどんすさんでいきました。

うまくいかない理由をすべて他人のせいにしていたんです。自分のなかにある理想の自分、理想の芸人を貫くために背伸びをし、肩肘を張っていたのがいけなかったと思います。

何を頑張ったらいいのか分からず、努力の方向性を間違えていた

――東京では建設現場のアルバイトをしていましたが、あえて大変な肉体労働を選んだのには理由があるのですか。

大阪では街全体で芸人の卵たちを応援してくれる風潮があるんですよ。芸人を目指していると言えばご飯を食べさせてくれる定食屋さんや、テレビの撮影があると言うと快くロケをOKしてくれるアパートの大家さんがいて、アルバイトにも困ったことはありませんでした。

でも東京では、上京したばかり32歳の芸人を誰も助けてくれませんし、どこも雇ってくれません。上京してはじめて、どれだけ大阪の環境に甘えていたのかということに気がつきました。

過酷なバイト生活が芸人たちの間で話題となり、テレビ番組に出演するきっかけとなった

 

アルバイトが全然決まらないまま、ついに所持金が2,000円しかなくなったころにやっと雇ってもらえることになったのが建設現場の日雇いのバイトだったんです。そこで毎日ヘロヘロになるまで働きましたが、他人のちょっと不幸な話って面白いじゃないですか。

肉体労働なのはネックでしたが、その反面、この過酷なバイト生活が芸人としてのエピソードトークになりそうだとも思いました。いずれは面白いエピソードを集めてテレビに出たり、それらをまとめた本を出版したいと思ってアルバイトにいそしんでいました

これまでの人生やバイト生活をつづった処女作『プロレタリア芸人』(扶桑社文庫)

 

――本坊さんはバイト生活を綴った『プロレタリア芸人』を出版されていますし、テレビ出演も果たしていますから、当時思い描いていた夢は叶ったわけですね。

はい、ありがたいことにその夢は叶いましたが、つらいことをしてこそ呼んでもらえる仕事なので、結局はバイトに行かないとエピソードができないわけですよね。笑いのために嫌なことを始めたら、嫌なことしかできなくなってしまったんです。つらいことから逃げられないなら、あとはもう工事現場で面白い死に方をするしかないとすら思っていました。

ただ、「これも笑いの種になるから」と自分を騙しながらアルバイトを続けるのは、自分が思い描いていた姿ではありません。

――東京で仕事が上手くいかなかった理由について、ご自身ではどのように分析していますか。

具体的な仕事の提案ができていなかったことが原因だと思います。ネタ作り、エピソード集めなどに奮闘はしていたものの、それは芸人として当然のこと。仕事がほしいのであれば、会社に何か具体的な提案をしなければなりません。具体的な案を用意していない状態では、会社としてもサポートしようがありませんから。

現在はオンライン会議にも参加して、会社に具体的な提案をするようにしています。その結果、会社もフォローしてくれるようになりました。吉本は面白いと思ったことは何でもやらせてくれるんです。

努力の方向性を間違えているのに、「会社が何もやってくれないのがいけないんだ」と責任転嫁するのはお門違いだったんですよね。

自分の生き方を否定せず、常に「更新」し続けることが大切

――今のように会社とコミュニケーションを取れるようになる前、芸人としてつらかった時期に支えとなっていたことや、モチベーションが下がってしまったときしていたことなどあれば教えてください。

この体験や経験をいつかネタにしてやるぞと思っていました。

上京してから山形に行くまで8年間耐えたので、期間的にはちょっと長かったですが、それでも後悔はしていません。人生にはつらい経験はつきものですし、苦しかった時期がないと嬉しいときの振り幅が平坦で面白くはない気がします。

東京での苦しい生活を経験しない方が良かったと思うのは、過去の自分を否定することになりますし、僕自身そうは捉えたくありません。東京での8年があるから、今の自分があるんです。

山形県西川町。歓迎ムードで迎えられた

 

――東京での経験があったからこそ、今のような活動ができているんですね。山形へ移住し、闘うフィールドを変えたことで見えてきたことや感じるご自身の変化はありますか。

どうして仕事があるのか、仕事の流れやそこに至るまでに関わっている人の気持ちを考えて仕事をすることができるようになりました。

山形移住をするとき、フットボールアワーの後藤さんに「芸人をやり続ける上で、過去に戻るのが一番やったらあかん。どんどん『更新』していかな」とアドバイスをもらったのですが、当時の僕は「それなら山形移住を機に大工道具なんて処分して、大工だった過去を捨てていこう」と思っていました。

でも、その決意を後藤さんに伝えると「大工をしていた過去の自分を否定してはいけない」と言われたんです。その言葉にハッとして、結局、大工道具を持っていくことにしました(笑)。

2020年には「本坊ファーム」を始動。一人で700本もの大根を収穫

 

あと、山形に来てから出会った地域おこし協力隊の人なのですが、彼は見えないところでいつも誰かのフォローをしていました。誰かに「やれ」と言われているわけではないんですよ。移住してからたくさんの人に助けられたから、少しでも役に立ちたいという彼の純粋な気持ちを目の当たりにして今の自分に影響していると思います。

過去を否定して捨て去ることと、自分を「更新」することはまったくの別物です。山形移住は自分自身の考え方や価値観を大きく変化させました。ここに来てはじめて、自身の視野の狭さに気づくことができたんです。

『脱・東京芸人〜都会を捨てて見えてきたもの』をもとに編集部作成

※インタビュー後編はこちら
視野が広がったことがキャリアを見直すキッカケになった。ソラシド・本坊元児が考える仕事の本質と向き合い方

【プロフィール】
本坊元児●1978年生まれ、愛媛県出身。2001年、相方・水口靖一郎とソラシドを結成。上京後、下積み時代のバイト生活の様子がTwitterで話題となり『プロレタリア芸人』(扶桑社)を上梓。2018年、住みます芸人として山形に移住。近著に『脱・東京芸人~都会を捨てて見えてきたもの』(大和書房)。

取材・文=小林ユリ
取材=山田卓立

【関連記事】
“芸人”中間管理職!次長課長・河本が語る「先輩に気に入られる力」と名MC芸人たちの処世術
ニューヨーク・屋敷裕政┃個室ビデオ店で流した涙が芸人の道への第一歩
GAG・福井俊太郎┃芸人の夢を語らなかった男がある事件で翌日退職。芸人の道へ

page top