ユースカルチャーを更新し続けるクリエイティブディレクター、庄司信也は何者なのか!?

福山雅治、エレファントカシマシ、SHISHAMO、GOING UNDER GROUNDをはじめ、数々のアーティストのアートディレクションを手がける一方、

ユースカルチャーを更新し続けるクリエイティブディレクター、庄司信也は何者なのか!?

福山雅治、エレファントカシマシ、SHISHAMO、GOING UNDER GROUNDをはじめ、数々のアーティストのアートディレクションを手がける一方、

音楽レーベルの運営や、スタイリストの伊賀大介さんと共にDJユニットを組んだり、青山にBAR天竺を出店したり…形を変えながらも、挙げればきりがないほど多彩な活躍をみせる庄司信也さん。

今回は自身が出店しているBAR天竺で、これまでの経歴を振り返りながらクリエイティブなものづくりの秘訣とは何かを伺いました。クリエイティブディレクターとは一体どんな仕事をしていて、どういうきっかけでなれるお仕事なのでしょうか?

根底にあるのは「好きなことをやりたい」という気持ちだけ


-会社の経営からアーティストのマネジメント、CDジャケットのアートディレクションなど、お仕事の幅がとても広いですよね。

名刺にはCD(クリエイティブディレクター)って書いてますが、なんでも屋に近いですね。場合によっては音楽屋とか言ってますけど。「クリエイターのマネジメント会社もやってるじゃん」て言われたら、それも正解だし。

職人じゃなくて経営者だからこそ複合的にはなりますが、根底にあるのは好きなことをやるというシンプルな考えなんです。


-クリエイティブディレクターとは具体的にどんなことをするのですか?

プロジェクトの指揮をとる仕事です。例えると、点をどんな線にするかとか、大枠と根底を考え、プロジェクトを具現化していく際に、スタッフィングは誰にお願いするかなどの細かいところを、関わるスタッフと一緒に考えつつ、指示を出す、いわゆる現場監督的な役割だと思っていただけると分かりやすいと思います。

僕の場合はそれに加えてアーティストのマネジメントもするし、ライブやWEBで販売するバンドのグッズデザインなんかも考えます。
なので一般的なディレクターという枠から飛び出した活動も多くありますね。

-これまでの経歴についても伺わせていただきます。もともとは日本のストリートブランドを代表する、ミスターハリウッドの設立メンバーなんですよね。

学生のころ、ジャック・ケルアックの『路上』っていう小説に感化され「旅をしまくってやる!」と思い、土木現場の仕事で貯金しながら、「アメリカを旅して暮らそう」って思ってたんですよ。もう発想が幼稚ですよね(笑)。

そんなとき、ゴーゲッターという古着屋の先輩に、「ウチに入ったらお金を貯めなくても古着の買い付けでアメリカにも行けるし、旅もできるからいいんじゃない?」って誘われて、お店を手伝うようになったんです。そうしたら、その会社がミスターハリウッドっていう新たな事業を立ち上げることになって、今のデザイナーの尾花(大輔)さんと二人でその新事業の担当になって。


-当時の生活って覚えていますか?

オリジナルレーベルの服を作ったり、アメリカに行って買い付けもしてました。今ほど物を作れるお金はなかったし、技術もそこまで発達していない時代だったので、自分たちでせっせと洋服の加工をしてましたね。

お店の営業が終わった後に屋上へ行って、鉄板を削るマシーンで「アチチ!」って指先をヤケドしながら、パーカーに加工を施したりして。手作業なので、その日に売る分くらいしか服が作れなかったけど、「1日10万円分くらい売れれば何とかなるかな」って感じで。

自分が一番好きなことを、責任を背負ってやることが大事


-ミスターハリウッドといえば木村拓哉さん、中田英寿さん、松田龍平さんをはじめ、多くの有名人が愛用しているブランドとして有名ですよね。設立してすぐ、お店は軌道に乗ったのですか?

それが全然! 軌道に乗ったのは立ち上げて1、2年ぐらい経ってからで、それまでは1日の売り上げが800円の日とかもありましたね。

-その当時、ミスターハリウッドって急に人気が出て若者に広まっていった印象でした。

当時はリメイクをメインにやっているブランドって珍しかったし、競合がいなかったのも大きいんじゃないですかね。時代と合っている実感はありました。

結局、古着をベースにしているから全く同じ物は作れないし、サイズもまばらで、ベースの古着の在庫がないと量産ができないので、地方の服屋さんに卸すことができない。だから、お店の人やお客さんから欲しいって言われても供給が追い付かず、なんとかしないと地方のお客さんにも悪いなと思っていたんです。

それで、古着ベースのリメイクを商品構成の彩り程度の割合にして、新品をメインに扱うように方向転換した時期があって、そのタイミングから広がった印象があります。クラブイベント企画の一環で行ったのが一番初めに催したファッションショーだったのですが、その辺りから、多くの人に認知されるようになったんです。当時は「こんなに反響出ちゃったけど、次どうしよう」と思ってましたね。置かれている状況はうれしかったのですが、どう対応していいか分からなかった印象があります。

-その後、ミスターハリウッドを退社して、2005年にレコードショップ兼カフェのYouth Recordsを設立したんですよね。

ファッションは自分の中のプライオリティーでは1番じゃなかったんです。ありがたい誘いに乗ってやっていただけなのですが、会社も大きくなっていって、人員も増えていく中で、立ち上げ当初からいただけの理由で、僕の扱いがなんとなく“会社の偉い人”みたいな雰囲気になっていて。

当時はまだ22、3歳の若者だったので、それが妙に窮屈になっていったんです。若い人の育成とか、スタッフの給料もちゃんと賄わないといけないとか、そういうことも考えるようになっていって、自分自身も等身大以上に盛って魅せないといけないような立場になってきて、これって俺、やりたいことだっけかなあ?と思うようになって。何しろ若かったので(笑)。会社やブランドが盛り上がっていく中で、どこか僕だけ乗り切れない感じがあって。それだったら本来好きだった音楽を生業にした仕事をやりたいなと思い始めたのが24歳くらいだったかな。
ここまである種、形にしたから、洋服屋さんはもういいんじゃないかなと思って会社を離れ、そこからYouth Recordsというお店を始めたのが25歳のころでした。

-成長していた会社を辞めて、全く違う業界で会社を作るというのはリスクがあるように思えます。そのとき、背中を押す出来事があったのでしょうか?

生きていると楽しいことばっかりじゃなくて、つらいことや退屈なこともたくさんある。でも、その退屈の原因を人のせいにはしたくないなと思っていたころで。そこで、自分が一番好きなことの中で、責任もしっかり負えることってなんだろうって考えた結果、レコードとか漫画とか酒場とかユースカルチャー全般が好きだったので、それらを取り入れたお店を作ろうと思ったのが立ち上げたきっかけです。


-その後、雑誌やWEBで紹介されるほどの人気があったにもかかわらず、お店は突然の閉店となりました。

あのときはレコード屋とカフェをやっていたんですけど、自分で音楽レーベルをやりたいなと思っていて。そんなとき、andymoriというバンドの前身バンドのライブを見たんです。もともとは違うバンドを目当てにライブ会場に行ったのですが、「ううん!?、これカッコよくねえか」と衝撃が走って、作品をリリースしたいなと思って。

その後、バンドはandymoriという名前に改名して、Youth Recordsの第一弾アーティストとして所属することになりました。当初はそんなにすぐ結果が出ると思ってなかったのですが、ありがたいことに広くリスナーの方に愛してもらえて。

そうなるとお店の仕事もレーベルの仕事もどちらも片手間みたいになっちゃうので、そんな中途半端な状況を変えようと思って、店舗は閉じてレーベルに専念しようと思いました。それが31歳のときでした。

アートディレクションは、言葉にできないことを目で感じさせる仕事


-現在の活動の軸となっている、アートディレクションは何をきっかけに踏み込まれたのですか?

レーベルを始める前に、何件かアートディレクションの仕事が来ていたんです。

-いきなり、その分野の仕事がやってきたのですか?

そうそう。そういう仕事が多いだけで、僕はそこまでアートディレクションを行っている、ということ自体をあまり意識してはやっていませんでした。

-とは言いつつも、福山雅治さん、[Alexandros]、SHISHAMOなどベテランから若手まで、そうそうたるミュージシャンとお仕事されていますよね。

そうですよね、だから仕事をしながら日々勉強させてもらってます。
アートディレクションは「アート」といっても、まずミュージシャンやクライアントありきの「アート」なので、自分だけの作品ではありません。作品全体を考えると0から1を生み出すわけではなく、1+2とか2×2という考え方が近いのかなと思います。身もふたもないことをいうと、まるで借り物のようなものなんです。

基本的にはその対象が「魅力的に見える」ように取り組んでます。難しいのは、ジャケットやミュージックビデオって、ケース・バイ・ケースですが、スタイリッシュだから良いというワケではないし、奇をてらっているから良い、というワケでもない。そのバランスの妙、さじ加減がいつも難しいです。

この仕事は言葉にできないことを、視覚で感じさせる仕事だと思っています。


-マネジメントの仕事についてもお話を伺います。レーベルには現在は3組のアーティストが所属していますが、バンドを育てるというのはどんな感覚ですか?

先ほども言いましたが、まずはそのバンドが魅力的に映ることを考えます。方法論はさまざまで、アーティストによっては、足し算する人もいれば引き算する人もいます。ストロングポイントとウィークポイントの足し引き。

例えば、ロックバンドはDIYが一番格好良いし、パーソナルな部分もそのバンドの魅力の一つだから、誰かが用意した何かはまとわないようにしようとか、普通は隠したがるような情けないところが、このバンドの素晴らしいところだから、そこをあえて推していこうとか、そういうバンドの理念や性格を、まま見せていくことも育てる上で大事な要素だと思います。変にプロっぽくしないといいますか。

そんな中で僕の下した判断に対して、「なんで?」っていうメンバーもいるので、なぜならばこうっていう、アーティストに対して自分なりの答えをいつも持つようにしています。
マネジメントをする以上は、アーティストと一緒に喜びや痛みも感じながらヴィジョンを追って、前に進んでいきたいですね。

-経営者として、庄司さんが惹かれる人材ってどんな人ですか?

面白い人が好きですね。俗によく言われる天才とか才能って言葉はあまり信じてなくて。ロックンロールは才能が負ける世界でもあると思っているんで。CDの売り上げ枚数だけが勝ち負けじゃないとも思うんですよ。

続けていくには結果がもちろん大事ですが、ただ売れれば良いというわけではないので。音楽の内容は言うまでもなく、そういう売れ方、上がって行き方も含め、面白いか面白くないか、カッコ良いかカッコ良くないか、という二元論の野生の勘はありますね。特に音楽は。

仕事じゃなくても良いから、好きなことを見つけるといい


-若者特有の面白さってどんなことが挙げられると思いますか?

ウチのレーベルに古舘佑太郎というアーティストがいるんですけど、彼を見ていると面白いんですよ。とにかく自分のことしか考えてないのに、結果的に人に対して異常に優しい。自己愛が強すぎて、嫌われたくないが故に人に気を使いまくるという(笑)。そういう、仕上がり的にこんがらがっている人が面白いと思いますが、打算的な人はそんなにすてきに思わなかったりします(笑)。

僕が仕事をする上で決めていることは、面白くて好きな人を選んで一緒に組むってことなんです。


-ちなみに、庄司さんは同郷の人とお仕事される機会が多いですよね。

確かに周りは山形県民多いですよね(笑)。以前いたスタッフも山形の同級生でしたし、銀杏BOYZの峯田(和伸)くんとか、村井(守)くんも同じ高校出身です。あと、デザイナーのTANGTANGは幼なじみなんですよ。もう、ほぼ組合ですね(笑)。

-なぜ、そこまで才能がある人が集まるのでしょうか?

地元に退屈していたので、ここではない何処かへ、っていう誇大妄想があったんじゃないでしょうか。物が溢れて恵まれた環境だったら、また違っていたかもしれない。「あの雪景色の無常感が俺たちを育てた」とはよく言ってます(笑)。

-人生の先輩として、20代に向けてアドバイスをいただければと思います。

仕事でも仕事以外でも、自分が好きだなって思うことを見つけられたら幸せですよね。夢中になれることを持つことって生産性、非生産性を問わず、人生が豊かになっていくと思うんです。

夢=将来の仕事みたいにいわれてるけど、夢って職業のことだけじゃないと思うし、むしろ僕の夢といったらキャンピングカーでとにかく旅することなので。今の時代は情報が多すぎるから、探すことすら難しいかもしれないけど、そんな中でも自分が夢中になれることを見つけてほしいです。

まとめ


「自分の好きなことに正直になることが大事」だと語っていた庄司さん。「好き」を原動力にして今の自分を築き上げた彼の、多岐にわたる事業への熱量や行動力の高さの秘密を知ることができる取材となりました。

自分が夢中になれることは何なのかを見つめ直すことが、将来のあなたのキャリアプランを形成する土台となっていくかもしれませんね。


識者プロフィール
庄司信也
庄司信也(しょうじ・しんや)
Youth Records兼factory1994主宰。1978年生まれ。2005年にYouth Records設立、2010年にクリエイティブ スタジオ FACTORY 1994設立。現在はCDジャケットのディレクション、PV等の映像ディレクション他、フォトグラフ、DJ、選曲、イベント・オーガナイズ、執筆業等をこなす傍ら、BAR天竺の運営も行っている。

※この記事は2016/03/22にキャリアコンパスに掲載された記事を転載しています。

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