“東京芸人の父”にインタビュー! ぶっちゃあさん、なんでいつもそんなに前向きなの?

ミスをして上司に叱責された…。営業成績が上がらない…。仕事で失敗したら落ち込んでしまうもの。そんな人は芸歴40年を超えるベテラン芸人・ぶっちゃあさんを見習ってください! ぶっちゃあさんは“東京芸人の父”と呼ばれ、数々の人気芸人に慕われているお笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」のメンバー。大ベテランにもかかわらず「どうやったらブレイクできるのか?」が口癖。自ら「永遠の新人芸人」とうたい、いつも前向き。気になったので聞いて来ました。「ぶっちゃあさん、どうしたら前向きになれるんですか?」

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40年以上ものキャリアで楽な瞬間は一度もなかった

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現役のお笑い芸人でありながら、サンミュージックお笑い養成所の講師を務め、これまでダンディ坂野さんやカンニング竹山さん、カズレーザーさんなど数々の芸人を世に送り出してきたぶっちゃあさん。40年以上ものキャリアを誇るレジェンドに、これまでの道のりで辛かった出来事を聞いてみると「ずっと辛いですよ」と即答。

「楽なことなんて一度もないですよ。僕は49歳くらいで離婚したんですけど、唯一財産と言えた抽選で当たった公団も前の嫁と息子に渡して、車を売って金に換えて、家賃1万5千円というアパートに住んでました。40歳頃、バイトをしたこともあるんです。引っ越し屋で苦情係をやって、4件回ったらご祝儀で8万円もらったこともありましたけど、それもみんなで飲みに行ってマイナスになりました(笑)」

辛い日々を笑いを交えて話すぶっちゃあさん、なんでそんなに明るいんでしょうか。

「『時代に合わせて生きて、その中で楽しみを見いだしていく』これが僕の想いだからです。今、新型コロナウイルスの影響で、みんなイライラしていますよね。気持ちはわかります。でも、イライラしてばかりいてもしょうがないじゃないですか。僕だってもう4月からずっと仕事なくなっちゃってますけど、どうにかするしかないという気持ちです(笑)」

時代の変化には逆らわない。それがぶっちゃあさん流の前向きに生きる方法なのかもしれません。生きてさえいれば、どこだって天国になるのかもしれない、と。

映画監督志望だったけど役者の楽しみを見出す

ではぶっちゃあさんが、『時代に合わせて生きて、その中で楽しみを見いだした』瞬間はいつでしょうか。最初の転機は映画監督志望の若者が俳優になった時。

「もともと、映画監督を目指していて、京都にある東映の俳優養成所に入ったんですよ。“監督コース”はなかったんですけど、俳優になったら、監督さんと仲良くなって、監督の道が開けるかも、という思惑があって(笑)。相棒となるリッキーともそこで知り合い、彼と自主映画を作っていました。最終的に監督にはなれなかったんですが、そこで得た経験は大きかったですね。養成所公演でたまたま主役に抜擢されたんですけど、お客さんとして来ていたおばあさんが感動のあまり泣いちゃって。その姿を見て『役者っていいもんだな』と思いましたね」

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相方のリッキーさんと京都で活動していたぶっちゃあさんですが、2度目の転機はある人との出会いでした。

「(当時俳優・歌手だった)現千葉県知事の森田健作さんと知り合って仲良くなったんですよ。ちょうどマネージャーがいなくて困っていたらしく『東京に来て、やってくれないか?』と言われたんです。『リッキーと二人でなら』と交渉して、東京へ行くことになりました」

森田健作さんの所属事務所サンミュージックで約2年間マネージャーを勤め上げた二人は、お笑いと出会うこととなりました。

「マネージャーを辞めたあと、時間が空いたので日雇いバイトをしていました。そのとき、休憩室にあったテレビで『笑っていいとも!』の前身番組『笑ってる場合ですよ!』が流れていたんです。『お笑い君こそスターだ!」っていう素人オーディションみたいなコーナーに、東くん(東国原英夫)たちが出ているのを観て、相方に『出てみようよ』って相談したんです」

お笑いコンビとして一躍ブレイク。しかしそこで間違えた!

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ふとした偶然からお笑いと出会ったブッチャーブラザーズは芸人デビュー早々にブレイク。しかし、そんな華々しいデビューについて、ぶっちゃあさんは「デビュー時が絶頂」と振り返ります。

「最初に売れて、そこからずっと仕事もあり、ちょっと調子に乗っていましたね。それがダメだったんだと思います。気付いたら、とんねるずやウッチャンナンチャンの人気が上がっていたんです。僕らが調子に乗っていた時代に彼らは怒鳴られたりしながら頑張っていたんですよね」

やがて所属事務所のサンミュージックを離れ、ブッチャーブラザーズは事務所を移籍し地道な活動を10年ほど続けた後、独立。ブレイク前のダンディ坂野さんらを弟子として育成するも、業績は厳しかったといいます。

「当時、シティボーイズさんやB21スペシャルなどが独立したタイミングだったんです。僕らも『いけるんじゃないか』と独立しちゃったんですよ(笑)。でも、結局そんなに上手くいかず、大久保のアパートを借りてひっそりとやってました」

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そんな苦境に声をかけたのが、古巣サンミュージック、そしてビートたけしさんでした。

「とある結婚式の場でたけしさんに会って、近況を話したら『個人は大変だろう。うち来いよ』って誘ってもらったんです。僕はたけしさんが大好きだったので『行きたい!』と思いました。でも、ちょうどその10日くらい前にサンミュージックから『お笑いをもう一度やるために、お笑い班を作りたい』って声をかけてもらっていたんです。結局、相方と相談して、たけしさんには『先にサンミュージックから声をかけてもらっていて…』という長い手紙を書いて謝りました。その後、直接謝る機会もあったんですけど『お前らが良い状況になるならそれでいいし、もし困ったらいつでも来いよ』って言ってもらえて、その時は泣いちゃいましたね」

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ときに目標を見失い、ときに苦境に立ちながらも、ぶっちゃあさんが常に忘れなかったのは人の縁。そして、辞めないこと。「辞めずにいれば何かあるかもしれない」とぶっちゃあさんは笑います。しかし、その一方で「辞めるのもセンス。辞めて違う分野で活躍する人も沢山いる」だといいます。

「今度『東京ビタミン寄席』(ブッチャーブラザーズ主催の定期ライブ)が終わるんです。本当は続けたかったんですけど、時代の変化によるところが大きいですね。僕らは結局、時代に合わせて生きることが必要だと思うんです。今、会社で働いている方も仕事を続けるべきか、辞めるかを悩んだ時、この言葉を思い出してもらえたら嬉しい。続けていれば何かある。そして辞めた先にも何かある」 

文=照沼健太(ホワイトライト)
写真=辰根東醐
編集=野田綾子+TAPE

【プロフィール】
ぶっちゃあ
1981年リッキーと共にブッチャーブラザーズを結成。「笑ってる場合ですよ!」でのコーナー「君こそスターだ!」でチャンピオンになり、サンミュージックのお笑いタレント第1号に。「お笑いスター誕生!!」や「姫TV」などテレビ番組や「ビタミン寄席」などのライブを中心に活動。現在は事務所の若手芸人を育成する役職に就いており、ダンディ坂野やカンニングを育てる。2020年11月13日(金)になかのZERO小ホールにて「ブッチャーブラザーズ40周年記念単独ライブ」(仮タイトルになります)」を開催予定(場合によっては中止の可能性もございます)。
オフィシャルブログ 

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