会社員辞めレコード大賞曲『R.Y.U.S.E.I.』作曲。STYはなぜ“好きを仕事に”と決断したか

2014年の日本レコード大賞曲、三代目J Soul Brothersの『R.Y.U.S.E.I.』。疾走感のあるダンサブルなパーティチューンとして大ヒットし、2014年を代表する一曲となりました。

会社員辞めレコード大賞曲『R.Y.U.S.E.I.』作曲。STYはなぜ“好きを仕事に”と決断したか

2014年の日本レコード大賞曲、三代目J Soul Brothersの『R.Y.U.S.E.I.』。疾走感のあるダンサブルなパーティチューンとして大ヒットし、2014年を代表する一曲となりました。

この曲を全面的にプロデュースしたのが、STY(エス・ティ・ワイ)さん。三代目J Soul BrothersのほかEXILE、三浦大知、宮野真守といった今を代表するJ-POPのアーティストや、BoA、少女時代、SHINeeといったK-POPアーティストのプロデュースにも関わっている人物です。

そんな日本で一番売れる曲を作る音楽プロデューサーは、実は元会社員という意外な経歴の持ち主。なぜSTYさんは、“好き”を仕事にし、成功することができたのでしょうか?

「“好き”を仕事にするべきか」と悩む皆さんのヒントとなる、STYさんの経験と考えをお伝えします。

人生を音楽に懸けるなんてありえないと思っていた


――STYさんが初めてプロのクリエーターとして楽曲作りに参加したのは、COLOR(EXILEのATSUSHIを中心に結成されたボーカルユニット)に曲を提供した2005年だったそうですね。参加することになったきっかけは何だったんですか?


僕は24歳まで、大阪のWebデザインの会社で会社員をしていました。そこでずっと働くつもりでしたし、音楽の仕事を目指したことすらなかったんですよ。会社では営業から社員の管理指導、Webの制作まであらゆることをやっていました。いわゆるWebディレクターですね。

昼間は会社で働いて、家に帰ったら趣味として楽曲を作っていたんです。誰かに聞いてほしくて楽曲をネットにアップしていたところ、レコード会社のA&R(アーティストの音楽制作チーム)の方から「もっと曲を聞かせてほしい」というメールが届いて。いくつか送ったものをATSUSHIさんやHIROさん(元EXILEパフォーマー、現在は同グループの所属事務所LDH代表)が気に入ってくれたとのことで、「COLORのレコーディングに来てくれないか?」と言われたのが最初でした。

――いきなりすごい展開ですね。驚いたのでは?

趣味で作っていただけなので、「これでいいんですか?」という意味での驚きがありました。若かったし、初期衝動だけで作っているようなものだったから。結局、提出した中から2曲がCOLORのファーストアルバムに採用されることになり、スタジオでディレクションもしてほしいと言われ、大阪から東京に行ったんです。スタジオに行ったら、ATSUSHIさんと2人のエンジニアさんだけ。突然のことだったので緊張どころじゃなく、借りてきた猫のような状態でしたね(笑)。


――「もしかしたらプロの音楽プロデューサーになれるかもしれない、そのためにここで結果を出さないと」というような気持ちには?

それが、そんなことまったく思っていなくて(笑)。普通なら「このチャンスを逃したくない」って思うんでしょうけど、Webディレクターとしての仕事が忙しすぎて、そっちに気がいっていたんですよね。音楽を仕事にできるなんて、考えてもいませんでした。

――ずいぶん謙虚だったんですね。

僕が就職した年って、氷河期といわれる就職難の時代だったんです。仕事をしてお金をもらうことがどれだけ大変でありがたいことか、3年ぐらい働いて骨身に染みていた。だから、人生を音楽に懸けるなんてありえないって思っていたんですよ。

――しかしその後もさまざまなアーティストへの曲提供やプロデュースを依頼され続けたということですよね。

最初のCOLORのときから、自分の意志を貫いていたような気がします。それが逆によかったのかもしれないですね。今はそんな生意気な態度とてもとれないですけど、クリエイティブの世界だから面白がってもらえたのかもしれないなと思います。

「魂を込めた仕事をしながら死にたい」と音楽の道を選ぶ


――音楽の仕事が増えていく一方、昼間は会社員生活を続けていたんですか?

そうなんです。しかもすごく忙しい会社だったので、朝9時から夜まで働くのが当たり前で。トイレに行くふりして個室で寝たりしていましたよ(笑)。深夜に帰って、朝5時ぐらいまで音楽制作。数時間寝たらまた朝出勤……の繰り返しでした。

――そんなに忙しかったのに、会社を辞めて音楽の道に進もうという考えは起きなかったんですか?
確かにすごくキツかったけど、仕事自体は好きだったんですよ。しかもその会社が大阪から東京に移転することになったので、上京できることになって。1年ぐらい二足のわらじ生活をやってみました。

――その後、音楽の道に絞ることにした理由は?

二足のわらじの生活が体力的にきつくなったときに、「どっちの仕事をしていてもいつか死ぬんだ」っていうことを考えて。それなら、「自分がより魂を込めた仕事をしながら死にたいな」って思ったんです。極端だって思われるかもしれないけど、自分の周りに若くして亡くなってしまったり、やりたいことをあきらめたりした友人や知人が結構いたんですよ。志半ばで死にたくない。やりたいこと、好きなことを思いきりやってみようと決意した瞬間でした。


――もともと趣味で音楽制作を始めたきっかけは何だったんですか。

僕はもともと音楽のヘビーリスナーだったんです。親や兄が洋楽好きだったし、音楽好きの友達が多かったこともあって、中学生ぐらいからアメリカの音楽を聴くようになりました。高校生のときにR&Bなどのブラックミュージックがはやったのですが、TLCというバンドをたまたまテレビで見て衝撃を受けましたね。それからはずっとブラックミュージックを聴きまくって、20歳を過ぎてから自分でも作り始めました。


――最初はトラックだけを作っていたんですか。

最初はそうでしたね。ラップを乗せてみたけどあまりうまくなかったので、じゃあ歌にしようと。もともと歌うことは好きだったから、自分の歌を乗せるための曲を作りたいという意味合いもありました。それをネットにアップしていたら、レコード会社の方が聴いてくれたというわけなんです。

――STYさんはいくつか自分の作品をネットにアップされていますよね。その中で日本語詞を担当されたSHINeeというK-popアーティストの『LUCIFER』という曲を、STYさんが歌ったデモを聴いたのですが、すごく歌が上手で驚きました。

僕は、歌を大事にしたいという気持ちを常に持っているんです。『LUCIFER』はもともと韓国でリリースされた韓国語の楽曲を日本語詞にしてほしいという依頼でした。オリジナルの『LUCIFER』の世界観から離れているような、グルーヴのない日本語を乗せたくなかった。原曲を作った韓国のソングライターの方に失礼がないよう、グルーヴを絶対に崩さないようにという使命を感じて、意味も響きも原曲と同じように聞こえる言葉を考えたんです。本当に苦労してできた曲なんですよ(笑)。

※この記事は2015/08/10にキャリアコンパスに掲載された記事を転載しています。

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