会社員でも芸人でも変わらないエンタメへの情熱。コットン・西村真二の仕事への向き合い方

「NHK新人お笑い大賞」や「ABCお笑いグランプリ」など、数多くの賞レースにおいて決勝の常連で、「キングオブコント2022」では準優勝を獲得したコットン。きょんさんに続き、今回はツッコミ担当の西村真二さんにお話を伺いました。

「NHK新人お笑い大賞」や「ABCお笑いグランプリ」など、これまでに数々の賞レースで実力を示してきたコットン。もともと「ラフレクラン」というコンビ名で活動してきましたが「しくじり先生 俺みたいになるな!!」でコンビ名の改名を正式に発表し、「キングオブコント2022」では準優勝という成績を残し、知名度は全国区に。

コットンのツッコミ・西村真二さんは、慶應大卒で「ミスター慶應」グランプリ、そしてアナウンサーとして働いていた過去を持つ華麗な経歴の持ち主です。誰もがうらやむようなキャリアを捨ててまで、なぜ芸人といういばらの道を選んだのでしょうか。

※相方のコットン・きょんさんのインタビューはこちら
“思い切り”が人生を切り開くカギ。コットン・きょんが考える、仕事をする上で一番大切なこと

芸人になるはずがアナウンサーに! 守られなかった友人との約束

――芸人になろうと思ったキッカケについて教えてください。

笑いを取れる人ってカッコイイじゃないですか。原点はそこですね。

小中学生のころからお笑いが好きで、本当は高校を卒業したらすぐに吉本に入ろうと思っていたんです。でも親から「せめて大学は卒業してほしい」と言われたので、大学を卒業したら吉本に行こうと思いながら慶應義塾大学に進学しました。

――大学卒業後、すぐに芸人になる道を選ばなかったのはなぜですか。

大学在学中に「一緒に芸人になって、コンビを組もうよ」と友人を誘ったら、あっさりOKの返事をもらったんですよ。でもそこで彼から「芸人としての話題性を作るために1年くらい一般企業に就職してみないか」と提案されました。

もともと18歳で吉本入りしたかったから、今さらあと1年くらいNSCへの入学時期が延びても変わらないと思い、この提案を了承。就活では複数社の試験を受けましたが、地元の広島だったこともあり、内定が一番早かったテレビ朝日系列の放送局「広島ホームテレビ」でアナウンサーの道へ進むことにしました。

――アナウンサーになるのだってそう簡単なことではないと思います。「芸人になりたい」と思いながら、なれるものでのでしょうか(笑)

いやぁ、そこはやっぱり才能ですかね?(笑)

たしかに芸人になるという夢は持ち続けていましたが、だからといって片手間でアナウンサー試験に臨んだわけではありません。芸人になる夢と就活は別物と割り切って、全力で取り組みました。

ずっとエンタメに関わりたいと思っていたので、アナウンサー試験でもその情熱を素直に伝えました。アナウンサーも芸人もエンタメに通ずる職業という点では似ていると思います。

――「エンタメ関係」という点でアナウンサーになれても、芸人になりたいという気持ちは途切れなかったのですか。

そうですね。1年で辞めるという友達との約束もありましたし、芸人に対する夢は薄れませんでした。アナウンサーになって1年が過ぎたころ辞表を書き、いそいそとその友人に連絡を取ったんですが、彼からの返事は思いもよらないものでした。「会社を辞めたくない」と言うんですから、青天の霹靂でしたよ

芸人になるという熱い思いを再びよみがえらせた「ある芸人のネタ」

――友人から「芸人にはならない」と伝えられた後、どのようにして気持ちの整理をつけたのですか。

居ても立ってもいられず、友人を説得するためすぐさま新幹線に飛び乗り、彼が住んでいる名古屋まで会いに行きました。直接話せば状況が変わるのではないかと思いましたが、何も変わりませんでした。

翌朝も早くからロケの仕事があったので、結局彼とは1時間弱話をしただけで広島にとんぼ返りです。23歳、初めて降り立った名古屋の地で、「あぁ、俺は何をやってるんだろう」って。広島に着いてから大泣きして、気持ちの整理なんて全然つきませんでした

――その後もアナウンサーとして働いていましたが、そのままその道に進むという選択肢はなかったのでしょうか。

「芸人になりたい」という気持ちは持ち続けていましたが、八方塞がりでどうしたらいいのかわからない状態でした。仕事が充実していたこともあり、今思うと「芸人になる」という夢はかなり薄れていたように感じます。

――そのままアナウンサーを続ける選択肢もあったと思います。再度芸人を目指すことになったキッカケがあったのですか。

当時は芸人をやりたいのにアナウンサーをしているなんて、不誠実なのではないかと常に葛藤していました。「番組を任せてもらえるようになった」と喜んでいる同僚を見ると、芸人にもアナウンサーにも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そんなとき、たまたまチュートリアルさんが破竹の勢いで活躍した2006年のM-1のDVDを観たんです。お笑いへの熱が再燃した瞬間でした。「俺がやりたいのはこれだ!」と。

さっそく翌日に辞表を書きましたが、担当している番組を途中で放り出すわけにもいかないので、番組の改編期に合わせて部長を呼び出し辞表を提出しました。部長は「うそ、うそ、うそ! 待って待って!」と慌てていて、あの光景はまるでコントみたいでした。もしかしたらぼくの芸人人生はあの瞬間から始まっていたのかも。(笑)

捨ててきたものの大きさが違う。トガりまくってた下積み時代

――部長の反応を聞く限り、職場でとても良い関係が築けていたように感じます。心残りなどはなかったのですか。また、ご両親の反応はどうでしたか。安定した職業を手離すとなると、心配される可能性もありそうです。

もう心を決めていたので、何を言われても決意が揺らぐことはありませんでした。アナウンサーを辞めるとき、部長もそうですが、バラエティ班のメンバーも応援してくれました。広島カープの選手たちは壮行会を開いてくれました。周りの人たちや環境に恵まれたと思って、今でも感謝しています。

親から反対されることもありませんでした。うちは兄も会社員を辞めて出馬していますし、姉も会社員を辞めて今は議員秘書をしています。2人とも安定の道を捨てているんですよ。親としては子どもには安定した職業に就いていてほしいものなのでしょう。それなのにぼくを含め誰一人として全然思い通りにならないものだから、もしかしたらもどかしさはあったかもしれません。

――周りの人の理解や協力があり、18歳のころから入学したかったNSCにやっと入学できたわけですね。長い道のりだったと思います。

そうですね。だから決断してからの行動はとても早かったですよ。貯金もある程度たまっていましたし、アナウンサーを辞めてから4カ月後にはもうNSCに入学していました。

26歳で初めてアルバイトをしたんですが、アナウンサーとして働いていたときの環境と違いすぎて戸惑いました。同時に「あぁ、自分が今いる立ち位置ってこの辺りなのか」とも思いましたね。飲み屋のお客さんに「君、芸人目指してるの? じゃあ何か芸見せてよ」なんてからかわれたり、芸を披露しても「全然面白くない!」と言われたりして。自分の置かれた状況に歯がゆさを感じつつも、いつか見返してやるぞと奥歯をかみ締めて耐えました。

――下積み時代に苦しい生活を続けていくなか、「アナウンサーに戻りたい」と思うこともあったのではありませんか。

いいえ。覚悟を決めてアナウンサーを辞めたので、「あの場所に戻りたい」とか「辞めなければよかった」とは思いませんでした。自分のなかに芸人を続けるという選択肢以外はなかったんです。

あと白状すると、当時は「こっちはアナウンサーを辞めて芸人になろうとしているんだ、お前らとは捨ててきたものの大きさが違うんだ」と思っていたんですよ。だいぶトガっていますよね。

――きょんさんは「にっくんはお笑いに対する情熱がすごい。そこに捨ててきた大きすぎるキャリアがあるから、トガっていたのではないか」とおっしゃっていました。

きょんって根が真面目だし、思いやりがある温かいやつなんですよ。今も昔も、きょんには本当に感謝しています。

でも当時は、それとは別のベクトルで不満もたまっていました。ボケ担当なんだから、隙あらばボケたらいいじゃないですか。ボケてくれなければツッコミは機能しないじゃないかと無言の圧をかけていましたが、それってどう考えてもきょんの負担の方が大きいんですよね。

きょんに過度な期待と負担をかけていたことで、きょん自身も萎縮して面白いことが言えなくなってしまう…まさに負の連鎖です

――コンビ間の関係性を改善させるキッカケがあったのでしょうか。

「NHKお笑い大賞」以降、ネタが評価されたことでコンビ間の緊張感が薄まりました。

ただ、コンビ間の関係性が改善したのは「しくじり先生」の出演以降ですね。あれが転機になって、お互いをリスペクトし合える関係を築くことができました。きょんも多分同じことを言うんじゃないかなと思いますよ。だから比較的最近なんですよ、コンビとして「きっかけ」をつかめたのは。

番組に出演されていたオードリーの若林さん、平成ノブシコブシの吉村さん、ハライチの澤部さんらから面白いところを引き出してもらって、新しい風を取り入れることができました。今までは自分はツッコミなんだからその役割に徹しようとする気持ちが強かったのですが、いじられるようになって180度、人生がかわった気がします

考えてみればボケとツッコミのポジションがしっかりと定まっていないコンビもいますから、それぞれの役割に縛られすぎる必要はなかったんですよね。今は自分も自ら前に出てドリブルしていいんだと思ってやっています

「芸人とアナウンサーのハイブリット」だからできること

――コンビ仲も改善し、芸人として知名度も上がってきた今、これからの人生設計をどのように考えているのでしょうか。

テレビに出演させてもらえるようになってわかったのは、番組というのはとことん席数が決まっているんだなということです。MCの席、ボケの席、ツッコミの席、ひな壇……など、座席表からは多くの情報が読み取れます。

だからこそ、自分たちのスタイルを確立できなければダメなんです。番組側もフックになる部分がない芸人をいつまでも呼んではくれませんから。テレビ出演を継続するため、今はコンビ間で自分たちの方向性について話し合っているところです。

今はコットンとしてわれわれ2人を番組に呼んでもらえていますが、言ってしまえばこれは「キングオブコント特需」です。ここで何かしらの爪痕を残せなければ、今後のメディア露出は間違いなく減るでしょう。せっかくつかんだチャンスを、特需で終わらせるわけにはいきません!

――きょんさんの持ち味を生かしながら、そこに西村さんご自身のうまみが絡まれば、さらなる高みを目指せそうですね!

個人的な話をすると、ぼく自身、今やっと「芸人」と「アナウンサー」のハイブリッドとして上手く言葉を扱えるようになってきたところなんです。たとえば、司会をするときにはアナウンサーの感じに芸人要素を加えることもできるし、芸人の感じを押し出しつつ、そこにアナウンサー要素を加えても面白い。

アナウンサーは誰かを引き立てる仕事ですが、芸人は率先して笑いを作る仕事です。両者の毛色はまったく違いますが、だからこそハイブリッドにすることで味が出せると思うんです。

――アナウンサー時代の経験も、芸人活動に役立っているんですね。最後に、会社員と芸人に共通する「はたらく」ことに対する価値観や仕事への向き合い方を教えてください。

エンタメへの情熱こそが、ぼくにとって仕事をする上で外せないことなんです。自分の芯になる部分さえ見失わなければ、苦しいことがあったとしても後悔にはつながらないと思います。

実はアナウンサー時代、芸人さんとの絡みがキツかったんですよ。「自分だったらもっと上手につっこめるのに」とか「今、ボケるタイミングあったじゃん!」などと思っていました。ただ、実際に芸人になってみて思ったのは「見るのとやるのでは大きな違いがある」ということ。

芸人にならなければお笑いの難しさに気付くことはできませんでした。これまでの経験を無駄にせず、自分にしかできないスタイルを組み立てられるように、これからも精進していきたいと思います。

※相方のコットン・きょんさんのインタビューはこちら
“思い切り”が人生を切り開くカギ。コットン・きょんが考える、仕事をする上で一番大切なこと

【プロフィール】
コットン・西村真二●1984年生まれ、広島県出身。慶應大学商学部卒業。在学中には「ミスター慶應」コンテストでグランプリを受賞した。2008年、広島ホームテレビにアナウンサーとして入社し、3年間アナウンサーとして勤務。退社後、2012年にNSC東京校17期生の同期・きょんと「ラフレクラン」を結成。2019年には「NHK新人お笑い大賞」で優勝。「ABCお笑いグランプリ」では2017年から2021年までの4年連続で決勝に進出。2021年4月にはコンビ名を「コットン」に変更。2022年10月に「キングオブコント」では準優勝に輝いた。

文=小林ユリ
撮影=吉岡教雄
取材=山田卓立

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