自分が置かれる棚から少しずつずらしていく。 ふかわりょうが語る「人生の舵を切る方法」

お笑い、番組MC、音楽、エッセイの執筆など、幅広く活躍するタレントのふかわりょうさん。前編ではテレビの世界へ飛び込むまでの道のりや、人生の軌道修正をする方法などについて伺います。

ふかわりょうが語る「人生の舵を切る方法」

現在、タレントのふかわりょうさんは、お笑い、番組MC、DJ、エッセイの執筆など、幅広く活躍しています。デビュー前は何も知らない状態で、とにかく「テレビの中に入りたい」といろいろな芸能プロダクションへ連絡したそうです。前編では、そんなふかわさんのデビューまでの道のりや、出川哲郎さんから言われた「一言」で自分の立ち位置を変えようと思ったことなど、人生の節目において大切にしている考えについて伺いました。

テレビの世界に飛び込みたい。高校2年生で決意した進路

──ふかわさんは慶應義塾大学在学中の20歳でデビューされています(1994年)。お笑いの世界を志したのはどんな理由からだったのでしょうか。

僕は小さい頃からかけっこが得意なタイプで、「一番」にこだわっていたところがあったんです。でも中学生くらいになると体格差などで敵わないことがあるとわかってきたし、運動というものは歳をとることがハンディキャップになってしまうと感じていました。

そこから将来を考えてみたとき、80歳になってもしわしわの指で鍵盤に触れるピアニストだったり、いくつになっても面白いことをやっている芸人さんだったり、歳をとることがハンディキャップにならず、むしろ趣や味につながる仕事っていいなと。それで笑いと音楽という二つの道が僕の中にあったんですが、ピアニストを目指すにはちょっとスタートが遅かった。じゃあ音楽はあくまで趣味にして、仕事としてはテレビの中に飛び込もうと決意したのが高校2年生のときでした。

──年齢を重ねた先まで想定して仕事を考えていたんですね。進路を問われる学年ではありますが、そこまで見越して決める人は少ないように思います。

当時は受験戦争や偏差値教育というものがかなりヒートアップしていたんです。それが当たり前だという空気感の中で多感な時期を過ごしていたんですが、偏差値という数字がそのまま人間の価値かのように使われていることに対して、どこかで違和感を抱いていました。だからこのまま大学に行って良い会社に入って……みたいなレールに対しても違和感があった。

一方で、受験戦争をとりあえず戦って勝っておきたい気持ちもありました。高校2年のときまでに醸成された感覚と、歳を重ねた先の展望が入り混じって複合的な感情があったんだと思いますが、とにかく「テレビの中に入りたかった」のだと思います。

──今は各プロダクションにお笑いの養成所がありますが、当時は東京で芸人を目指すときの明確なルートは確立されていなかったのではないでしょうか。

まったくなかったです。高校2年生でテレビの世界に飛び込もうと意思を固めたとき、同時に「20歳になったら門を叩こう」と決めたんです。でも、その門がどこにあるかわかりません。今のようにYouTubeやSNSがないので、こちらから発信するツールもなかったですし。

──過去のインタビューによると、いろいろなプロダクションに電話で問い合わせされたそうですね。

ふかわりょう_インタビュー1

本当になんにも知らなかったので、なんとなく名前を耳にしたことのあるプロダクションに電話して「お笑いやってますか?」って聞くところからでしたね。お笑いライブも行ったことがなかったし、その存在すら知りませんでした。電話先の担当者に「ネタ見せをやっているからそこに来てください」と言われて行ってみて、というスタートでした。

いずれにしても、そこでYouTubeやSNSがなくて選択肢も極めて少なかったことは、僕にとっては良かったんじゃないかと思っています。門がどこにあるのか、どうやったらテレビに出られるのか、何もわからないわけじゃないですか。その「届かない時間」が価値のあるものだと思っているんですね。何にでもすぐアクセスできるのは、もちろん良い面もありますけど、必ずしもそれだけが人生において有効ではないのかなと。それに慣れすぎると、地に根を張る時間をおざなりにしてしまう気がします。根を張らず、ただただ幹だけを伸ばそう、早く果実をもぎとろうとすると脆い樹木でしかなくなる。だから、根を張る時間というのは僕が生きている上でかなり大事にしていることではありますね。

──たしかに、即時的に結果や答えを求めると身にならないというのはさまざまな局面で言えることのような気がします。

でも、これを人に押し付けるつもりもないです。世の中には、富士山を「しっかり歩いて山頂に行くからそこで観る景色が綺麗だ」と思う人もいれば、「いや、ヘリで山頂まで行って観る景色だって同じだよ」と思う人もいるわけで。ただ僕は、前者を大事にしているというだけです。

初めてお客さんを前にネタを披露して、テレビの中に入るという感覚を得た

ふかわりょう_インタビュー2

──時間をかける・かけないという話でいえば、デビューから『小心者克服口座』でブレイクされるまでは比較的短かったかと思います。ご自身の実感としてはどうだったのでしょうか。

非常に短かったですね。20歳で始めて、半年くらいかな。ブレイクというより、最初は深夜番組でネタをやるようになってじわじわと知られていき、ゴールデンタイムに出て全国の人に名刺を配ることができたという印象です。

なので、いわゆる下積みの時期は長いほうではなかったです。でも、テレビまでの距離は感じていました。自分の一存で「出たい」といって出られる世界ではないじゃないですか。同時に、一度出てもずっと出続けられるものでもない。そういうところが根を張る時間にはなりましたね。

──それが芽吹いたとき、自分では予想もしていなかった反応もありましたか?

あのネタは一言ネタを2回ずつ繰り返して何個か言うんですが、ライブで初めてやったとき、最初の一言では客席が無風だったんです。それが2個め、3個めくらいからじわじわ来て、最終的にものすごく温かい拍手をいただいて。

そのとき、「あ、これはテレビの中に入るな」って感覚がありました。世に誕生したときのあのお客さんの反応のダイナミクスや、そこでつかんだものは未だに忘れられないですね。「なんだろう?」から「あぁ、そういうことか」とじわじわ見方が伝わっていって、見えないものがわーっと広がっていく感覚があった。多分、一発目から淡々と笑いを取るようなものではテレビの門を突き破る大きなエネルギーにはならないと思っていたので。

──やはり、そこでも“溜め”の時間が大事ということなのかなと思いました。一方で、後輩であるAマッソさんのYouTubeに出られた際に「いつか邪魔になるから、早くヘアターバンをとらなきゃと思っていた」と仰っていたのが印象に残っています。それはテレビで受け入れられだした段階から考えていたんですか?

早めに外さないとずっとつけなくちゃいけなくなってしまう、と考えながらやっていました。トレードマークみたいなものがあると、最初はその恩恵があるけれど後々重荷になるだろうな、と。でも、これはあくまで僕の舵の切り方であって、どっちが正解という話ではないんです。ずっとヘアターバンをつけ続けていたら続けていたで、今違う景色を見ているかもしれないし、同じ景色にたどりついていたかもしれません。ただ僕はそういう判断をした、ということですね。

自分が置かれる棚を変えようと思うきっかけになった、出川さんからの「神の啓示」

ふかわりょう_インタビュー3

──舵を切るという意味では、その後ふかわさんはバラエティでいじられキャラとして人気を博していたのが、あるとき出川哲朗さんから「ポスト出川はお前だ」と言われたことをきっかけに「このままでは取り返しがつかなくなってしまう」と方向転換された、とエッセイなどで明かされています。

ネタをやるのとバラエティ番組での立ち回りとでは、求められるものが変わります。僕は当時、バラエティでは求められることをただただ無心でやっていて、それが大きくいえば出川さんチームだった。でも、ちょうど30歳くらいのあるとき、出川さんが隣に座って僕の膝をポンと叩いて「ポスト出川は、お前だからな」と言われた瞬間、拒絶反応みたいなものが起きて(笑)。

出川さん自身がそう言ってくださるくらいなので、パブリックイメージとしては違和感がなかったのかもしれませんが、自分の中では違和感があったのだと思います。「これは軌道修正しないといけない」「いつか壊れてしまう」と感じたんです。出川さんのやっていることは作ってできることじゃないし、もちろん尊敬していました。だからこそ、直接言われたことで、神の啓示じゃないですけど、舵を切ることができた。

僕の中では、年齢によって求められるものが微妙に変化していくイメージがあったんです。20代の頃はテンションや勢いでどうにかなったことがだんだんそうではなくなっていく。それもあって、30歳の頃から自分が置かれる立ち位置、つまり“棚”を意識的に移動しました。今までは出川さんたちの棚に置かれていたところから少しずつずらしていった。「今はこっちの棚に置いてないんです」と露骨にはできないので、求められるものには応えながらも別の棚に陳列されるように動いていった感じですね。

──期待されているものを断れば目先の仕事は減らざるを得ません。その怖さよりも、それを続けることの怖さのほうが勝ったということでしょうか。

そうかもしれないですね。違う棚に飛び込むことへの恐怖心よりも、これまでの棚にずっといることへの恐怖心のほうがもしかすると大きかったかもしれません。でもそれよりも、自分に嘘をつけなかったんだと思いますし、最初に話した、歳を重ねることがデメリットにならずに味になる方向に向かおうという気持ちのほうが大きかったです。仕事の量は減るだろうしある程度リスクも伴うけれど、そこにたどり着くには別の棚に今行かないと無理だろうな、って。

1〜2年でその結果を出そうと思っていたのではなくて、ずっと先を見ていたんですね。少なくとも10年くらい、つまり40歳のときにはこれまで求められていたのとは違う仕事をしていようと。20代でやってきたことを否定する意味じゃなくて、その時々で自分の表現できることと求められることが一致している状態になっていこうと意識していました。

──働く上で、「◯歳までにこれを達成する」と具体的な目標を持つ人もいます。ふかわさんは年齢や節目で「こうなっていたい」と具体的なビジョンは持っていましたか?

ふかわりょう_インタビュー4

あるにはあります。高校2年生のときに「20歳で門を叩こう」と決めるくらいなので、30歳、35歳、40歳と、なんとなくポイント、ポイントでビジョンのようなものはありました。

ただ、それより大きいものとして、僕は「何を思い、どう動き、誰と出会うか」で人生が決まると思っているんです。まずは、自分がどんな価値観を持って、どんなことを思い描いているか。そこから実際に動き出してみる。でも、1人で動いてもなかなか大きなエネルギーにはつながりません。そこで「誰と出会うか」なんですね。自分の小さな思いの歯車が、誰かと出会って大きな歯車と噛み合って動き出す。それが人生という道になっていくと思います。どのタイミングでそう思ったのかはわからないんですけど、ある時期からそういう意識が自分の中で確立されました。

──素敵な言葉ですね。

そうですか。本当にそういうものだなって思うので。出会う人が違ったらきっと、違う人生になっただろうなって。「何を思い、どう動き、誰と出会うか……」久しぶりに口にしました(笑)。

 

【プロフィール】
ふかわりょう(ふかわりょう)
1974年生まれ。神奈川県出身。慶應義塾大学在学中の1994年にお笑い芸人としてデビュー。長髪に白いヘアターバンを装着した、「小心者克服講座」でブレイク。のちの「あるあるネタ」の礎となる。現在は「バラいろダンディ」(TOKYO MX)のMCを務めるほか、DJや執筆など活動は多岐に渡る。著書に『世の中と足並みがそろわない』『ひとりで生きると決めたんだ』(共に新潮社)、『スマホを置いて旅したら』(大和書房)など。
http://www.happynote.jp/

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