向き不向きは、自ずと見えてくる。佐藤満春が語る、焦らず生きるためのメソッド

お笑い芸人、放送作家、トイレクリーンマイスターなど、さまざまな肩書きをお持ちの、佐藤満春さん。キャリアを切り拓いた流れや、仕事の「向き不向き」を見定める方法について伺います。

向き不向きは、自ずと見えてくる。佐藤満春が語る、焦らず生きるためのメソッド

お笑い芸人、放送作家、トイレクリーンマイスター…さまざまな肩書きを持ち、マルチに活動を続ける、佐藤満春さん。特に放送作家としては、多数のレギュラー番組の構成を担当しており、まさに多方面での活躍を見せています。今回は、佐藤さんがキャリアを形成していく過程などについてインタビュー。前編では、「どきどきキャンプ」としての活動から、放送作家への道を志すに至った背景や、仕事の「向き不向き」を見定める方法について伺います。

消化試合の日々に彩りをくれた、お笑いとラジオ。“消去法”でその道を志した

――佐藤さんは現在、お笑い芸人と放送作家など、さまざまな顔を持っていらっしゃいます。この働き方を選ぶことになった経緯から聞かせていただけますか。

幼稚園や小学校の頃から「将来の夢」を書く時間が本当に苦痛だったんです。強烈な趣味や特技が何もなくて、漠然とした夢も持ったことがありませんでした。小学校1年生のときにサッカーを始めたんですけど、全然上手にならなくて「向いていないのではないか」と勝手に感じていました。当時は「頑張れば目標は成就する」という教育方針が今よりも強い時代でしたが、「そうでもなさそうだ」「人には向き不向きがあるな」と小学生の時点で思うようになって…。そこからはとりあえず「先生や親に怒られないこと」が僕のテーマになってしまって、毎日が消化試合みたいだと感じていました。

そんな意識で過ごしていた中で、中学校1年生のときに伊集院光さんの『Oh!デカナイト』(ニッポン放送)というラジオ番組を聞き始めて、「ラジオってこんなに面白いんだ」と知ったんです。そこからは「ラジオを聞くために明日も生きよう」と思う毎日がはじまりました。

――そこからお笑いの世界に触れていったわけですね。

お笑いが好きになってライブに行き出して、高校生のときは見よう見まねでネタを書いてみたり友達と文化祭で漫才をやってみたりしたんですけど、じゃあお笑い芸人になるようなセンスや才能を自分が持っているかというと難しそうだなと。でも、ほかに強い興味があることや得意なこともなくて、消去法で考えていくと僕はラジオやお笑いに助けられたからこれ以外に選択肢がなかった。みんなみたいにフラットに就職したり専門学校に行ってみたりということができたらよかったんですけど、そんなガッツもなかったんです。「やるぞ!」みたいな生命力がなかったんです(笑)。

23歳でお笑いを始めたとき、うまくいく未来なんて想定していませんでした。ただ当時のお笑いの世界では30歳くらいまでは下積みでいいというか、売れなくても許される雰囲気があったんですよ。それって逆にいえば“センスがなくてもやっていい時間”だから、「これでご飯を食べられなくても30歳までは大丈夫」と思えました。それで、無理だとは思いつつも目指してみたという感じです。

消化試合の日々に彩りをくれた、お笑いとラジオ。“消去法”でその道を志した

ひな壇からラジオへ。「好き」の現場に赴いたことで、未来が拓かれた

――そして、ちょうど30歳になる2008年、どきどきキャンプさんは『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)をきっかけにブレイクします。多くの芸人さんが「ここから頑張っていこう」と思うタイミングですが、佐藤さんの場合はここが今に至る分岐点になっているそうですね。

当時はひな壇ブームで、どデカいひな壇に100人くらい芸人が座っているような番組が結構あったんです。そこにちょこんと座らせてもらっていたんですけど、そもそも大勢の中で大きい声を出して前に出て面白いことを一言だけ言って笑いをとる、みたいなことを、スキルとして持ち合わせてないことに、そこであらためて気が付いて。僕の実力ではここで結果を出すのは無理だと思いました。2時間のスタジオ収録で一言もしゃべらないで帰るようなことが毎日続くので「これでお金をもらっちゃっていいのかな」「僕がいなくても成立するのに申し訳ないな」と勝手に思っていました。

実際にあった話でいうと、芸人さんやタレントさんが数十人いる大型クイズ番組で、カメラが止まって短い休憩が入ったときにトイレに行ったんですね。戻ってきたら収録が再開してクイズが1問終わっていたことがありました(笑)。

――すごい話です(笑)。

それってやっぱりいなくても成立するし、僕の存在が気づかれてもいないってことじゃないですか。かといってそこで「いや、なんで僕いないのに1問やってるんですか!」って出ていけるわけでもない。存在意義がないというか、お金をもらう対価としては役目を果たしていないな、と思いました。

ちょうどその頃に『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)が始まることになって、ラジオの現場に行きたい! という強い思いで現場にお邪魔して。現場で作家の藤井青銅さんと当時のディレクター、宗岡芳樹さんに「ラジオが好きなんです」という話をしたら、青銅さんが「ラジオが好きで毎週見学に来て、そこからスタッフになった人はいるから、“作家見習い”として来ればいいんじゃない?」と言ってくださって。スタッフとして迎えていただきました。そこから「作家をやってるんだよね?」と依頼をいただくようになり、今に至ってます。それは単純に運が良かったですね。そうした出会いがなかったらこうはなっていなかっただろうなと思います。

――ブレイク期にテレビの収録で前に出られず悩むのは若手芸人の方が通る道だと思いますが、努力して克服しようとは考えなかったんでしょうか。

全く考えなかったですね。そういう時期に出るバラエティ番組は成功すると2回目に呼ばれるんですけど、僕はことごとく1回目で全部終わったんです。その事実と、一緒にやっている芸人さんたちのスキルと自分のスキル、それから自分が知っている自分という人間を鑑みたときに、どうしたって向いてないし多分これをできるようにもならないだろうなと思いました。

それに、「できるようになったとて、果たして…」という気がしたんですよね。お笑いは好きだし、面白いことを考えるのも好きで、ネタをやるのも好きだけど、それはバラエティ番組において何かを為すこととイコールじゃないな、って。ああいう世界が好きなら頑張れたかもしれないですけど、そのために何かをしようとは一回も考えませんでした。

「なんでもやってみる」精神が、向き不向きを決める材料になる

――そこから作家という新しい世界に飛び込んで、やはり最初は苦労が多かったですか?

「なんでもやってみる」精神が、向き不向きを決める材料になる

多かったです。今思えば仕事の発注元とのコミュニケーションに苦労したな、と。そもそも人とのコミュニケーションがとるのが上手なほうではないので…。当時は実績もなく、人に信頼されるまではなかなか厳しかったですね、当たり前のことなんですが。

作家になって15年くらい経ちますが、最近は仕事の依頼を丁寧にいただけることが増えました。ちゃんとした人として信頼されて、仕事をいただいていると感じるようになったのはここ4〜5年。信頼を意識して働くことの、重要性を学べた気がします。

――仕事をある程度自分で選べるフリーランスでも、駆け出しの頃はとりあえず来たものをなんでもやったほうがいいと言われます。佐藤さんもそんな時期があったんでしょうか。

まさにそうですね。そうしないと仕事にならないし、人脈もない中で始めたのでどんな人でもどんな内容でもいただいた時点でありがたかったです。そこで何か評価をひっくりかえしてやろうというよりは、仕事を振ってくれた人に「良かったな」と思ってもらえることを絶対やろうという思いが第一義としてありました。

――なんでもやってみないと向き不向きはわからないですよね。

本当にそうだと思います。自分の不得意なことを発見できるのはすごく大事なんですよね。最初の話に戻りますが、あの頃にサッカークラブに入っていなかったら「人には向き不向きがある」ということ自体に気づかなかったかもしれません。それに気づかせてくれるのは環境なんだろうなと今も思います。

僕が作家としてこんなインタビューをしていただけるということ自体がありがたい話です。それは、オードリーの若林(正恭)くんや春日(俊彰)、南海キャンディーズの山里(亮太)さんなど、一緒に仕事をした身近な人たちがいろんなところで僕の名前を出して「すごく助かった」みたいな話をしてくれたからでしょう。実力も影響力もある彼らがそうやって言ってくれた結果、僕の実力以上に評価してもらうこともあります。そういう人と仕事ができているのは本当にありがたい話だなと思います。別に彼らに評価されようと思って仕事をしているわけではなく、結果としてそうなっただけなのですが。

多様な経験は、「点を線に」してくれる。今を悲観しすぎず、まずはできることを

多様な経験は、「点を線に」してくれる。今を悲観しすぎず、まずはできることを

――作家のお仕事が自分で「向いている」と思えた瞬間はいつだったんでしょうか?

やっぱり仕事のオファーが増えた瞬間ですかね。自分のことは自分ではわからないものですが、いただく仕事の金額帯だったり本数だったりで「これはどうやら向いてるのでは」と思えるようになっていったところはあります。

僕はフリーランスなので、「この番組の放送作家になってくれませんか」と依頼を受けて仕事をすることになります。そうすると、結果として自分に向いている仕事が残っていくんですね。作家になった当初は「ゴリゴリのバラエティ番組の作家になりたい」「『オールナイトニッポン』を何曜日も掛け持つ作家になりたい」と勝手に思っていましたが、そうはなりませんでした。というのも、今は、情報番組を多くやっているんです。それはつまり、僕が情報番組が得意ってことなんだと思うんですよ。僕にできることを周りの人が判断してくれて、その中で「あ、こっちが向いているんだな」とわかっていった感覚が強いですね。

――20〜30代の若い頃は働く中で「この仕事は自分に向いていないかも」「もっと向いている仕事があるんじゃないか」と悩むことも多いと思います。そうした思いを抱えているビジネスパーソンに、何かアドバイスをいただけないでしょうか。

僕が偉そうに言えることはないですけど、ちゃんと意味があって今の仕事に就いていることは間違いないと思うんです。なんとなく就職活動したにせよ、運や縁があってそこにたどり着いたことは一つの結果ではありますよね。仕事量が多かったり不当な扱いを受けたりしたなら辞めることを検討してもいいと思いますが、向いているか向いていないかを今ジャッジする必要はないと思います。

20〜30代はそういうことで悩む瞬間がめちゃくちゃあると思うし、実際に別の仕事に就くこともあると思います。でも、今やっていることも自分の選択の結果だし、自分の人生ですよね。その先にどんな仕事をするにせよ、今の仕事を自分の前提というか「フリ」にするしかない。僕でいえば、お金もない中でネタをつくって舞台に立っていた時期の経験が今の作家の仕事にめちゃくちゃ活かされています。アイドルのラジオ番組をやっている経験が情報番組で活きることもあるし、情報番組で知った観光地の情報が深夜番組に活きることもある。今過ごしている時間を完全に否定しないことは大事かもしれないですね。

――過ごした時間は無駄にならない、と。

20年後30年後にその時間を振り返ったときに「あ、この点が線になったな」と気づいたり、置いてきたオセロが全部ひっくり返ったりする瞬間をつくれたらいいわけじゃないですか。僕は今40代半ばですが、ようやくなんとなく自分の縁取りが見えてきたくらいです。近視眼的に、今の瞬間だけで考えすぎないほうがいいような気がします。

【プロフィール】
佐藤満春(さとうみつはる)
1978年2月17日生まれ、東京都町田市出身。岸学とのお笑いコンビ「どきどきキャンプ」や、『DayDay.』『ヒルナンデス!』(日本テレビ)などを担当する放送作家と、さまざまな顔を持つ。2023年2月、自身の人生観・仕事観・芸人観などをつづった書き下ろしエッセイ『スターにはなれませんでしたが』(KADOKAWA)を発売。
公式サイト
X:satomitsuharu

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