お笑い、番組MC、DJ、エッセイの執筆など、ふかわりょうさんはさまざまな活動の場を持っています。しかし世の中には、人からの「いいね」が欲しいからなんとなく続けていることがある、はたまた自分がやっていることが本当は向いていないかも、と悩む人も多いでしょう。後編ではそんな現代人が求めがちな「いいね」の価値についてふかわさんが思うこと、自分の向き・不向きを問わず物事を継続するための考え方などについて伺いました。
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自分が置かれる棚から少しずつずらしていく。 ふかわりょうが語る「人生の舵を切る方法」
他人からの「いいね」でなくとも、自らの存在を肯定してくれるものは見つかる
──ふかわさんはお仕事でもそれ以外の場面でも、人生で大きな挫折を感じたことはありますか?
挫折かぁ……僕自身はいわゆる挫折というのはあんまりなくて。というのも、ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、何かをして笑い声を聞くと「存在が許されている」って思えちゃうんですよ。何か大きな出来事があって挫折するのではなくて、もっと日常的に自分の存在に対する疑念が生まれ、それを笑い声で払拭するということの繰り返し。
これは本当に人によると思います。笑いを提供しようというサービス精神がベースにあってこの仕事をしている方もいるかもしれませんが、僕の場合はそうではないということです。
──面白いですね。芸人さんにお話をうかがうと、「この仕事はサービス業だと思ってる」という方は結構いらっしゃいます。
本当ですか。それはもうプロとして素晴らしいですね。僕はそういう意味ではプロ失格なんです。でもここは多分、そんな失格者もいていい世界なんです。それは、もしかすると社会全体にも言えることで、はぐれ者を排除しないほうが面白みが出てくるんじゃないかと思います。
──以前、ふかわさんが書かれた「いいねなんて、いらない」という新聞コラムが話題になりました。多くの人が共感したのだと思いますが、「いいね」に象徴されるような他者からの評価に振り回されて疲れている人がそれだけいるということでもあると思います。そうした状況では、失格者もいていい社会だとはなかなか思いづらいですよね。
周りにどう思われるかが安心感につながる人がいてもいいと思うんです。僕も笑い声によって自分の存在を許されていると感じているわけで、その笑い声が人によっては「いいね」なんだと思います。
ただ、物質的に豊かになったことで、以前は気にしなくてよかったことを気にするようになってしまっているんじゃないかなと思うところはあります。戦後の経済復興期には「幸福度」や「生きづらさ」といった言葉は社会にあんまり流布していなかったんじゃないでしょうか。「いいね」って多分「私は生きてるんですよね?」という確認に繋がると思うんです。物質的に満たされ、利便性を求めた社会では生きている実感が得られにくいから。
──生の実感を得るために「いいね」を求めている、と。コラムでは「人の『いいね』よりも、自分の『いいね」がひとつあればいい」と書かれていましたが、他人がなんと言おうと自分はこれが「いいね」と思う、自分軸の価値観を持つにはどうしたらいいと思われますか?
僕はこの前、スマホを置いて旅をしたらどんなものに出会えるんだろうと思って実行してみたんです。普段、お店に入るときってグルメサイトやSNSを見たりして選ぶじゃないですか。失敗したくないからなのかもしれないし、そういうやり方もあっていいと思うんですけど、僕はそれがちょっとしんどくなって。それで、たまたま歩いていて見つけたところに入ってみたり、店構えが気になったところに飛び込んでみたりしたんです。そのときあらためて、スマホの画面越しに見る世界と自分の目で直接見る世界は異次元ぐらい違うものだと感じました。
世の中には眩しいものはたくさんあるけれど、その尺度を決めるのはあなた
──今より若い頃からずっとそうした感覚を大事にしてこられたんでしょうか?
なんていうか、自分が眩しいと思うものを追い求めてきたなと思います。
──眩しいと思うもの、ですか。
世の中に眩しいものはたくさんあって、その眩しさの尺度というのは絶対自分の中で決められるものだと思っているんです。蛍光灯のワット数のように万人が共通で持っている尺度じゃなくて、自分だけの眩しさの感覚を持つことができる。
たとえば、映画ならハリウッドのNo.1作品じゃなくても素敵なものがあったり、音楽ならいわゆるジャケット買いをたくさんする中で出会った1曲だったり、あるいは日常を送る中で見た小さな蜘蛛だったり、空から落ちてきた葉っぱだったり、極端に言うとそういうことまで含めてです。子どもの頃に見ていた『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)や『8時だョ!全員集合』(TBS)も、それはそれは眩しかった。僕が「これはすごく眩しい」と思ってもみんなには全然見えてないこともたくさんあるけれど、とにかく自分が眩しいと感じるものをひたすら追いかけてきた人生でした。それを追いかけることが多分、自分の価値観を信じるということだったと思います。
10のうち2〜3くらいは痛みや苦しみがあるからこそ、継続できるしコクも出る
──他方で、働いていると必ずしも自分がいいと思うことだけをできるわけではなく「これは本当に自分に向いているのか」「もっと自分にしっくりくる場所があるかもしれない」と悩む場面もあると思います。ふかわさんはそういう迷いを感じたことはありますか?
それでいうと僕は、ほどよい迷いは悪くないと思っているんです。最初にテレビの世界に飛び込むときの「俺は絶対向いている」という大いなる勘違いは別として、「俺は本当にこの世界が向いてるなぁ」と常に思っているよりも「うーん、向いているかはわからないけど、今はここでやるしかないよ」くらいのほうが健全な気が。そうして目の前のことに取り組みつつも、自分が眩しいと思うものや人に出会うために、常にアンテナを張り続ける、この状態を築くことが大切だと思っています。
──今や『バラいろダンディ』(TOKYO MX)でMCとして存在を確立されていますが、それでもまだ「向いてないな」と思う瞬間はあるものですか?
MCが向いている、向いていないというより、芸能界という意味ではそうですね。ただ「向いてないかも」という気持ちよりも、おそらく「テレビの中にいたい」という気持ちのほうが強いんです。
──エッセイでは「多少の嫌なことこそ継続には必要だ」と書かれていました。「ほどよい迷いは悪くない」と通じるものがあると思います。
そうですね。どうやったってストレスや嫌なことは生まれると思うんです。生みの苦しみや痛み、気を重くするものが多少はあったほうが人生にコクが出るんじゃないでしょうか。無自覚だったり無意識だったりするんでしょうけど、日常生活が非常に効率的になってコクがなくなったから、流行りのキャンプなど、非効率である世界をあえて楽しもうとするようになった。でも、日常生活自体が非効率になることは望んでないんですよね。欲求というものにはそういう部分があると思います。
10のうち2〜3くらいは痛みや苦しみ、つまり苦味の部分があっていいんじゃないかなと僕は思ってます。それが過半数を超えてしまったら心が維持できないから、場所を変えたほうがいいと思う。でも10分の2の痛みもないところを求めるのもおすすめしないですね。「向いている/向いてない」も同じで、「向いてない」という思いがあまりにも大きくなったらそれを尊重してもいいと思う。だから塩梅ですよね。
人生の舵を切るときは、途中の景色を楽しみつつ自分を信じて進んでほしい
──ありがとうございます。最後に、20〜30代のビジネスパーソンである読者の方へのメッセージをいただけますか。
僕は今までの人生で舵を切った局面がありました。でも、そのときに違う方向に向かったり、舵を切らなかったらどうなってたかというと、それはわからないんですよね。違う景色にたどり着いたかもしれないし、結局は同じところにたどり着いてるかもしれない。だからもう、「舵を切るときは切り、途中の景色をどうか楽しんで」と、それしかないですね。
そのためには自分の手で舵を切ることが大切です。そうやって選んだ道だからこそ、出会うものの眩しさに気付ける。そして、それがどれくらい眩しいのかは、自分の感度で判断してほしいです。そうすれば、どういう景色に出会ってもきっと楽しめるものだと思います。
【読者へのエール】
どこにたどり着くかは分からない。
だから人生の舵は自分で切り
途中の景色を存分に楽しもう
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自分が置かれる棚から少しずつずらしていく。 ふかわりょうが語る「人生の舵を切る方法」
【プロフィール】
ふかわりょう(ふかわりょう)
1974年生まれ。神奈川県出身。慶應義塾大学在学中の1994年にお笑い芸人としてデビュー。長髪に白いヘアターバンを装着した、「小心者克服講座」でブレイク。のちの「あるあるネタ」の礎となる。現在は「バラいろダンディ」(TOKYO MX)のMCを務めるほか、DJや執筆など活動は多岐に渡る。著書に『世の中と足並みがそろわない』『ひとりで生きると決めたんだ』(共に新潮社)、『スマホを置いて旅したら』(大和書房)など。
http://www.happynote.jp/
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