日常の喜びや切なさを繊細に捉え、短歌に落とし込む歌人の岡本真帆さん。2018年、Twitter(現X)に投稿した短歌がバズり、一気に注目を集めました。2022年3月には、第一歌集『水上バス浅草行き』(ナナロク社)を出版。累計発行部数2万部と異例の売れ行きを見せています。インタビュー前編では、自身のキャリアを振り返りつつ、現在も会社員と歌人の二刀流を続ける理由や、承認欲求との向き合い方、キャリアの選択肢などについて語っていただきました。
※インタビュー後編はこちら
軸は複数持っておくといい。歌人・岡本真帆が考える「好き」や「得意」の見つけ方
何者かになりたかった10代の頃。のびのびと表現する人たちが羨ましかった
――岡本さんは、2018年に当時のTwitterに投稿された“ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし”という短歌がきっかけで、歌人として注目され始めました。初めて短歌に触れたのは、いつだったのでしょうか。
中学校の教科書に載っていた、俵万智さんの“「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいる温かさ”という一首です。「マイナスにマイナスをかけるとプラスになる」ということを、こんな短文で表せるなんて、すごく素敵だな、と思ったことを覚えていますね。
次の短歌との邂逅は、19歳の終わり頃。大学の図書館で読んだ、とある歌人の方が出題したテーマに沿って、読者が短歌を投稿する、という雑誌企画でした。年代はさまざまで、自分と同世代だったり、中には自分よりも年下の人だったりも投稿していて「プロでなくても、こんなにすごい短歌が作れるんだ」と驚きつつ、自分にはこんな力はない、とへこんでしまい、しばらくその雑誌が読めなくなって(笑)。
――19歳や20歳って、何者かになりたいという欲求が強い時期ですよね。
10代の多くが、「自分は天才であってほしい」といった願望を持っていると思います。私もまさにそうだったんです。高校生の頃から、言葉を使って表現してみたいという思いがあったものの、自意識とのバランスが難しくて。表現したいけれど、人に見せるのは恥ずかしかった。だからこそ、のびのびと短歌を作って投稿している人たちが羨ましかったんですよね。
仕事と遊びがフラットにつながる。2つの往来で生まれる好循環
――短歌を本格的に始めたのは、24歳、社会人3年目のときだったとか。
はい。当時、広告制作会社でコピーライターをしていたんですが、仕事にも慣れ、余裕が出てきた頃でしたね。企画書を書いたり、コピーを書いたりする中で、言葉の使い方もわかってきた。「今ならクライアントワークだけではなく、自分の表現ができるかもしれない」。そんなことをぼんやり考えながら、会社の近くにあった書店に足を運んだんです。
そこで見つけたのが、笹井宏之さんの『えーえんとくちから』(ちくま文庫 ※)という歌集でした。グレーと黄色のきれいな装丁と、帯の短歌に惹かれて手に取り「やっぱり短歌っておもしろいな」と。同じ頃、木下龍也さんの『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房)という歌集にも出会い、私も短歌をやってみようと決めたんです。
※ 出版当初の版元はPARCO出版
――当時から、短歌を仕事にしようと思っていたのですか?
実は、いまだに仕事という実感がないんです。私にとって、歌人は職業というよりも「生き方」や「スタンス」といった言葉の方がしっくりきます。有名・無名にかかわらず、歌を作るという生き方を実践している人が、歌人だと思っています。今でも会社員を辞めないのは、日常生活の中で出てくる感情を歌にしていきたいから。本業、副業と分けるつもりはなく、全てが地続きなんです。
それに、夢のない話だと思われるかもしれませんが、会社員として働くことで収入が安定し、安心して創作が続けられる、という利点もあります。のびのびとした創作活動をこれからも続けていけるように、私はこれからもきっとこの選択を続けると思います。
――会社員と歌人、二刀流を続けることで、思わぬ相互作用もありそうですね。
そうですね。仕事で知り合った方と短歌の同人誌を作るなど、仕事と遊びがフラットにつながっていくことが増えました。仕事が好きなことを後押しし、それによって仕事がもっと好きになっていく。そういう好循環が生じやすくなったと思います。
仕事と創作、二つの活動を行き来し続けることで、生活にメリハリがつけられるようにもなりましたね。勤務時間は仕事をする、それ以外の空いた時間を作歌に充てる。結果として、絶対に残業をしないように集中して仕事に取り組むようになりました。会社の同僚も私の歌人としての活動を応援してくれてるんですが、だからこそ一緒に取り組んでいる仕事の方も疎かにしたくなくて。いい仕事をして健全な関係を維持していきたいんです。
――歌集刊行後、さまざまな媒体から短歌やエッセイの依頼を受けることが増えたと思います。仕事以外の時間でそれらをこなすのは大変じゃないですか?
一時期、いただいた依頼を全て受けて、非常に苦労したことがありました。そのときに学んだのは、気持ちの余裕がなくなると、書くものにもコンディションの悪さがうっすら反映されてしまうということ。それに疲れていると、日常の些細なことをキャッチできなくなるんですよね。なるべく心身ともに健やかでいることがどれだけ大切か、身に染みてわかりました。今はスケジュールに無理があれば、「NO」とはっきり伝えるようにしています。
キャリアチェンジの理由は「長く愛されるものを作っていきたかった」から
――大学卒業後は、広告制作会社に入社したと、先ほどおっしゃっていましたね。就職活動をどのように進めたか、教えていただけますか。
就活を頑張った人には呆れられそうですが、実は合同説明会には一度も行ってないんです。関心があることにだけに時間を割きたい、と思っていたので、広告代理店の採用試験しか受けなかったんですね。ただ、対策もそれほどしていなかったので、ことごとく落ちてしまいました。
どうしようかなと思っていたときに、当時通っていたコピーライター養成講座の仲間から「岡本さんはTwitterが上手だから、インタラクティブ系の会社が合っているんじゃない?」とアドバイスをもらって。なるほどと思い、クリエイティブに特化した求人サイトで興味を持った会社をピックアップして、応募を始めたんです。
――得意を活かして再び就活に立ち向かったんですね。
そうですね。ポートフォリオを作って採用面接に臨んだところ、おもしろがってもらえて、運よく2社目で内定をいただきました。実際は新卒を募集していない会社に初の新卒として入れてもらったので、新卒向けのOJTなどはなく、いきなり社長と一緒に打ち合わせに参加したり、「失敗してもいいからやってみて」と未経験ながらもプロジェクトを任せてもらったり。制作進行、企画、ディレクション、さらにはコピーライティングまで……我ながらよくこなしたなと思います。
――新卒1年目からハードですね……。
終電で帰ったり、タクシーで帰ったり。今でこそ働き方改革が進み、残業時間を減らすよう求められることが増えてきていると思うのですが、当時はまだ、遅くまで残って仕事をする機会もあって。でも、仕事に対する不満は1ミリもなく、むしろ楽しかったんです。平日はずっと会社にいるせいか、土日に洗濯物を干していると「生活してる!」「日光を浴びてる!」と実感できて、それもまた幸せでしたね。
――現在は、別の会社に転職されたそうですが、どのようなお仕事をされているのでしょうか?
27歳のときに、漫画家や小説家をはじめとするクリエイターのPRなどを行っている会社に転職しました。今は、某有名漫画のコンテンツ企画やSNS運営に携わっています。
転職を決めたのは「長く愛されるものを作りたい」と感じたから。広告制作の仕事ってとても楽しくてやりがいがあるんですが、たまに打ち上げ花火をずっと上げ続けているような感覚に陥ることがあって。一生懸命作ったものも、契約期間が終了すれば公開が終わって、少しずつ忘れられていく。それがちょっぴり寂しかった。いつしか、刹那的ではなく長く人に愛されるようなものを作る仕事がしたい、と思うようになったんです。それに合致したのが、作家の創作活動をサポートする、今の仕事でした。
高知と東京の二拠点生活。景色を変えることで淀みがなくなった
――岡本さんは、コロナ禍を機に、地元・高知と東京で二拠点生活を始められたとか。何がきっかけで、高知で暮らしてみようと思ったんですか?
きっかけは、勤務先の代表のひと言です。コロナ禍で会社がフルリモートに切り替わり、北海道や四国など、地方に移住する社員が増えていました。私は東京住まいを継続していましたが、『水上バス浅草行き』の出版を報告するために代表に会ったとき、「高知に帰ってみたらいいのに。創作にも良い影響があるんじゃない?」と言われたんです。
そのときは、いやいや……と否定したんですよね。というのも、私の地元は、東京から一番遠いと言われている高知県の端っこにあるんです。飛行機と鉄道を乗り継いでも、東京から地元まで6〜8時間。そんな遠いところでわざわざ暮らすなんて、と思っていました。
でも、よくよく考えてみたら、地方で暮らすというのはいつでもできる選択じゃない。「リモートで仕事をしていいよ」と会社から言われている今こそ、試してみるチャンスなのかもしれないと思いました。それで「期間限定」と仮に決めて、2022年6月から二拠点生活を始めたんです。
――東京と高知では、生活環境がかなり変わると思います。そこを行き来するというのは、どのような感覚なんでしょうか?
移動をするたびに、「こんな違いがあるんだな」と気づくことが多いですね。例えば、コンテンツとの距離。東京なら映画館まで10分で行けるのに、高知だと片道2時間、交通費だってばかになりません。高知にいるときは、新しいコンテンツを摂取したいという意欲が自然と薄れていき「SNSでみんなが話題にしている作品を、自分は気軽に観られないんだ」と、少し寂しい気持ちにもなります。
――そういった気持ちも、岡本さんはいずれ歌にされそうですね。二拠点生活を始めたことで、作歌に影響はありましたか?
地元の歌をたくさん詠むようになっただとか、あからさまな変化は意外とありません。でも、景色を変えることの大切さは感じています。一ヶ所にとどまっていると、水の流れが滞留するように、気持ちの循環が悪くなってしまうんです。移動をしながら暮らすというのは、私の創作活動においていいことなのかもしれません。
勲章を得なくてもいい。誰かの「好き」が私のモチベーション
――お話を伺って、ポートフォリオを作ったり、SNSに短歌を投稿したりするなど、やりたいことに向けて手を動かし続けてきたことが、岡本さんのいまのキャリアにつながっているんだなと感じました。
そう思います。キャリアプランを立てて、それに向けて努力できる人は心からすごいと思いますが、私はそういうタイプではないんですよね。どちらかといえば、回り道をして、楽しみながら道を探す方が性に合っています。手を動かしながら、自分に向いていることや、楽しいと思えることを手元に残していくのも、ひとつのキャリアの築き方ではないかと思います。
――「何者かにならなければいけない」といった意識を手放し、一度、肩の力を抜いてみるのもいいかもしれませんね。
私も20代の頃は、宣伝会議賞や、TCC新人賞といったコピーライターの賞を獲れたら、自分がすごい人になれる気がしていました。それによって、社会的な価値を得られると思っていたんです。でも、勲章を得ることばかりが名誉だというわけではないんですよね。
私はいまの職場で自然体でいられて、その自分が仲間に受け入れられていると感じています。そのおかげか、勲章を得なければ、という思いから解放され、「何者かにならなければ」という気持ちは薄れていきましたね。
――切迫感から解き放たれることができたと。
短歌の活動も同じです。私はいま、歌人として色々なメディアに紹介していただいていますが、新人賞など、何かを受賞したことは一度もなくて。でも、わかりやすい勲章は持っていないけれど、「岡本真帆の短歌が好き」と言ってくれる人は、ありがたいことにいらっしゃるんですよね。そういった嬉しい声は「歌を作りたい」という私の純粋な欲求の追い風にもなっていて、自分のSNSやWebサイトなどで短歌を発信したり、新聞歌壇に投稿したりするなどの活動を楽しんで続けてくることができました。
そんな中、ある出版社から歌集出版の打診をいただき、そこではじめて、自分にも歌集を出せるポテンシャルがあるのかも? と気づくことができて。もともと商業出版には関心があったので、出版社数社に持ち込みをしたところ、歌集出版が叶うこととなりました。
目標への最短のルートを探すのもいいけれど、道草を食ってもいいと思うんです。自分自身が好きなことを、こだわって取り組む。それだって、幸せな人生の選択方法と言えるんじゃないでしょうか。
※インタビュー後編はこちら
軸は複数持っておくといい。歌人・岡本真帆が考える「好き」や「得意」の見つけ方
【プロフィール】
岡本真帆(おかもとまほ)
1989年生まれ。高知県中村市(現・四万十市)で育つ。未来短歌会「陸から海へ」出身。2022年3月、第一歌集『水上バス浅草行き』をナナロク社から刊行。現在はフルリモートで会社員をしつつ、歌人の活動を続けている。2022年6月より、高知と東京の二拠点生活を試行中。
公式サイト
X:mhpokmt
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