女優、アイドルを辞めて味わった巨大な敗北感。その先で大木亜希子が見つけたキャリアのヒント

女優、アイドルを経て会社員に、そしてフリーライター、小説家……と、多彩な職業を歩んできた大木亜希子さん。一見「華麗なる転身」にも見えますが、裏には大木さんが10代後半に味わった巨大な敗北感がありました。前後編を通じて、大木さんのこれまでのキャリアと仕事観をお届け。前編は、大木さんが敗北を乗り越えて希望を見つけたターニングポイントに迫ります。

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自分の強みを見つけるには、心がえぐられる痛い言葉を受け止める。大木亜希子の仕事観とは?

10代後半に感じた大きな敗北感

――大木さんのキャリア変遷について教えてください。大木さんはこれまで肩書きにとらわれず「辞める」選択をしてきたと思うのですが、自身では辞めることをどう捉えていますか?

大木:実は私の場合、辞めることを前向きな気持ちで捉えられたことはなくて……。そのときにあったのは「敗北感」。それだけでした。

14歳のときに大手芸能事務所にスカウトされてから、当時、大人気だったドラマ『野ブタ。をプロデュース』に出演して、周りから見ると華やかな女優人生だったんです。でも、芸能界は厳しい世界。だんだんとドラマのオーディションに通らなくなり、事務所の力に頼るバーター出演の仕事が増え……。結局、19歳で芸能事務所を退社しました。

そのときの敗北感といったら、ものすごかったです。当時は「自分には生きている意味なんかないし、人生終わりだ」と思いました。きれい事みたいに、「一からまた立ち上がるんだ!」なんて、とても思えませんでした。恥ずかしくて人に話したくもない敗北でしたし、自尊心も傷ついていました。

――そんなどん底の状態から、20歳になる年にアイドルグループ「SDN48」のオーディションを受けられますが、このときはどんな気持ちだったんですか。

大木:大手事務所を辞めるって決まったときに、当時、お世話になっていたスタッフさんがとても心配してくれて、SDN48のオーディションを紹介してくれました。これが最後のチャンスだと思って受けましたが……。正直なところ、自分が進むべき道が分からなかったんです。

SDN48に入る直前は、生活のためにとにかくお金が必要だったのでアルバイトをしていました。地方スーパーのイベントでキャラクターの着ぐるみを着て子供におやつを配ったり、ビジネスホテルでトイレの清掃のお仕事をしたり、早朝のパン工場で作業員として働いたり。奨学金を借りて短期大学に通っていましたが、先の見えない状況で、将来のキャリアなんてまったく描けなかったんです。

「アイドルになりたいのか」って言われると、本気でうなずけるわけじゃない。ただ、それしか道がなかった。もしこれでSDN48に受かれば、これまで知らなかった新しい自分に出会えるんじゃないかという、一縷の望みをかけてオーディションを受けました。

自分が何者か分からなかった

――大木さんはSDN48のオーディションに無事合格し、晴れてアイドルの道を歩み始めます。アイドル時代はどんなことを学びましたか。

大木:女優時代に受けた教えとは真逆でした。10代の頃に所属していたのは主役を輩出する大きな事務所だったので、そこでは「帝王学」を教えられました。「ドラマの撮影現場では堂々としなさい」とか、「常に落ち着いて寡黙でいなさい」とか。でもアイドルは正反対で、いかに笑顔を振りまき、明るくファンサービスをして喜んでもらえるかがすべてです。

それらに慣れていない私にとって、アイドルはマイナスからのスタート。歌も踊りも下手だったので、ひたすら練習しました。
同じグループの先輩から「10代で培った女優のキャリアは、ここでは全て忘れなさい」という言葉をいただいたこともあります。
その時は厳しい言葉だと思って聞いていましたが、今ではその言葉が真理であったと思います。

スタジオに1日10時間以上こもって歌い踊り、寝るとき以外は常にダンスのDVDを見続けて。夜ごはんのときに筋肉痛のあまり、手に持っているスプーンが震えてしまうくらいハードな生活でした。当時のことを元SDNのメンバーと話すこともありますが、記憶がほとんどない……と言うくらい大変だったんです。

――アイドルとして活躍するためとはいえ、相当ハードな練習を重ねていたんですね。

大木:「良い経験をさせてもらっている」という考え方は、必死すぎるあまり、当時はできませんでした。でも、感謝って後からじわじわと来るもので……。AKBグループの一大ブームを当事者として経験させていただけたことは本当にありがたいことであったと、今は思います。ファンの方々に出会えたこと、素人だった私に一流の振付師が指導してくれたこと、一流のスタイリストさんとヘアメイクさんが付いてくれたこと。貴重な経験をさせていただき、信じられないほどの幸運に恵まれていたと今は思います。

でも……。その裏で「私はどこにたどり着くのだろうか」と、正体の知れない恐怖にいつも背後から声を掛けられている気がしたんです。アイドルにはゴールがありません。これだけ厳しい道のりを乗り越えても、誰も私の人生の正解を教えてくれない。いや本来は、自分で見つけるべきなんです。次第に、この先、私はどうなるんだろうという恐怖がじわじわとやってきていました。

――大木さんは2011年の大晦日にAKB48グループの一員として紅白歌合戦にも出場しますが、翌年の3月にSDN48が解散。アイドル時代が終わり、先を見据えたときに何を思いましたか。

大木:それ以前に私は、10代の頃から芸能界にいたので「本当の自分」がどういう人間なのか、まったく分からなかったんです。人を喜ばせるのは目をつぶってもできるかもしれないけど、そこに自分の感情は伴っていない。自分の心を押し殺したピエロのような日々を過ごしていたので、アイドルを辞めたとして、じゃあ自分は何がしたいのか見当もつきませんでした。

ひとつ心に刻まれている言葉があります。SDN48を辞めた後、ある芸能事務所の社長さんに、私はこれからどうすればいいか尋ねてみたことがありました。すると「君は人間らしい香りが一切しない、ただ、ロボットのように機械的に愛想がいいだけだ。だから、他人に感じ良くすることをまずやめるべきだ」と言われて。

この言葉は一生忘れないと思います。これまで感じの良い自分を演じ、死ぬ気で人を喜ばせてきたし、それが良いことだと言い聞かせられていた。でも、いざ20代半ばから急に「人間味を出せ」と手のひらを返すように言われても、できるわけがないんです。本当の自分が分からず、自分の言葉を持てない人は私だけでなく、たくさんいると思います。

だけど、たまたま私の場合は「本を読む」という救いがいつも手元にあって。アイドル時代に仕事がなく待機していたロケバスの中で、絶望しながらずっと小説を読んでいた。辛い現実から、小説だけが私の心を救ってくれた。それが今の作家業につながっています。

「Twitterで目を引く文章を書くね」という言葉だけを頼りに

――大木さんはアイドルを辞めた後、どのようにして自分の進む道を見つけたんですか。

大木:SDN48が解散した後は、秋葉原で地下アイドルをしていました。最初はSDN時代のファンが来てくれたんですが、やがて100人が10人になり、3人になり……。最終的には両手で数えられるくらいにまでなって、いよいよアイドル以外の仕事も考えないといけなくなってきました。

それで漫画喫茶でネットサーフィンをしていたときに、以前ファンの人から言われた、「亜希子ちゃんはTwitterで目を引く文章を書くよね」という言葉をふと思い出したんです。たったそれだけの言葉でしたが、私ができそうなことはこれしかない! って思って。

それから、ライター募集の情報をひたすら調べてはメディアに応募しまくりました。「芸能界のコネクションを生かしていろいろな人を取材もできるし、営業でも何でもやります」という気持ちでした。そんなとき、あるニュースサイトの編集長が私に興味を持ってくださって。記事を書かせてもらったことがきっかけで、25歳のときにその会社に入社しました。

――会社員として働きたいと思った理由は何だったのでしょう。

大木:私は、常に「普通の女の子になりたい」と思ってたんです。芸能界で大して売れたわけでもないのに常識を知らない、不完全な人間だというコンプレックスもありました。なので、きちんとした会社に入り、一般教養や人間関係を学び、たまにみんなで女子会に行く……みたいな普通の自立した女の子としての生活がしたかった。

結果的に会社の方々は元アイドルということを気にせず、厳しく教えてくれました。名刺の渡し方やビジネスメールの打ち方など社会人の基礎スキルも身に付けられたうえ、プロの文章執筆やクライアントへの営業方法、取材して30分以内に速報記事を書き上げるといったタフな仕事も経験できました。

そこで、自分には書く才能があると気づけました。14歳の頃から仕事を10年続けて、ようやく、ささやかだけど確かなヒントが見つかったんです。その後、noteで書いた記事が多くの人に読まれたことでフリーライターとして生計を立てられるようになり、今の作家活動に至りますが、きっかけはこの25歳で迎えた転換期でした。すがったのは、ファンの人からの「目を引く文章を書くね」という一言だけ。それが今の私につながっています。

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自分の強みを見つけるには、心がえぐられる痛い言葉を受け止める。大木亜希子の仕事観とは?

【プロフィール】
大木亜希子●2005年に女優デビュー。数々のドラマ・映画に出演した後、10年にアイドルグループ・SDN48のメンバーとして活動開始。12年に卒業。15年からWebメディア『しらべぇ』編集部に入社。18年にフリーライターとして独立。現在は作家業を中心に活動。著書に『シナプス』(講談社)、『アイドル、やめました。AKB48のセカンドキャリア』(宝島社)、『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』(祥伝社)がある。

取材・文=弥富文次
写真=萩原昌晃
編集=小林雄大

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