東京や大阪など、大都市圏で仕事をすることだけが成功ではありません。ときには、再スタートを切るための新しい選択も必要です。
「麒麟」や「アジアン(2021年6月解散)」と同期のソラシド・本坊元児さんは、“面白い芸風”ではなく大工のアルバイトの愚痴を話す人として注目されるようになりました。同期の麒麟や後輩の千鳥が売れていくなか、ようやく掴んだ芸人としてのラストチャンス——それは吉本興業が手がける「あなたの街に住みますプロジェクト」で山形に移住することでした。
「住みます芸人」として新たなステージに立ったソラシド・本坊さんに、山形移住によって見えてきた仕事の本質や仕事への向き合い方について伺います。
※インタビュー前編はこちら
会社が何もしてくれない…がすべての元凶。ソラシド・本坊元児が脱・東京で学んだキャリアを「更新」する術
「お金を稼げたら楽しい」わけではなかった
――東京で大工のバイトをしているときには、まとまった金額を稼げていたそうですが、それでも山形へ移住した理由は何ですか。
大阪の下積み時代も含め、貧乏だったころはお金があれば幸せになれると思っていたんですが、そんなことはありませんでした。東京で大工をしているときには年収が400万円くらいあったので、自分ひとりで生活するには十分な金額を稼げていましたが、このときに感じたのは「全然面白くない」ということだったんです。
たぶんこれが芸人としてのお給料だったら違ったんでしょうけれど、大工でどれだけ稼げるようになっても満足することはできませんでした。
ここで芸人として稼ぐことこそが自分にとっての幸せなのだと気づいたんです。自分のなかにある芸人への熱量や、芸人を続けたいという気持ちの根っこの部分をしっかりと認識したことが、山形移住へと気持ちが向いた理由です。
――山形移住の根底には芸人であり続けることへのこだわりがあったのですね。実際に山形へ移住して、仕事への向き合い方はどう変わりましたか。
責任感については雲泥の差があります。
これまで会社から“割り振られた仕事”だと思ってこなしていたときは、たとえ失敗しても責任を負うのは自分ではないからと、どこか他人事のようなモチベーションで仕事をしていました。でも、山形に移住してからは、ゼロから仕事を生み出しています。
たとえば、ここに移り住んでから農業をはじめましたが、これは誰かの指示で始めたことではありません。自分の意思で決めたことです。自分で「やってみたい」と思って立てた企画なので責任はすべて自分にのしかかりますが、そういったものも含めて“仕事をやらされていた”と感じていた頃よりも楽しみながら仕事ができています。
――東京にいた頃よりも「社会の一員」としての意識が強まっている気がしますね。本坊さんが仕事をするうえで、特に大切にしていることは何ですか。
仕事は対等な関係があってこそ成り立つのだと思います。仕事は依頼する側とされる側がいるわけですが、それでも「やらせてあげる」とか「やってあげる」ではなく、双方ともに「してもらう」という姿勢でいることが大切だと思って日々やっていますね。
自分らしく働くためには、自分にとって何がネックとなるのかを知る
――本坊さんが山形移住を決めたのは40歳。キャリア的にも年齢的にも若手といわれる世代ではなくなってから環境を変えたことで、どのような苦労がありましたか。
芸歴のせいか、山形の仕事でもスタッフが気をつかって何もダメ出しをしてくれないんですよ。「できてないなぁ」と思いながら、どこがどうできてないか自分で見つけるのはなかなか難しいところがあります。
僕としてはもっといろいろ教えてほしいと思っているので、自分から意見を出したりして環境を改善しようと試行錯誤しています。でも、きっと“年上の部下”への気のつかい方って難しいのでしょうね。
――新しい環境での仕事においては、年齢に関係なく意見やアドバイスをもらえると助かりますよね。仕事をする上では周囲と連携することが欠かせませんが、自分らしく働くために必要なことは何だと思いますか。
自分らしく働くために何が一番のネックとなるのかを知ることが必要なのではないでしょうか。僕の場合、苦手な人や嫌いな人と働くのがとても辛かったんですよ。
僕は気持ちの根底に自分が好きな人や面白いと思った人と一緒に仕事がしたいという気持ちが強くあります。だから肉体労働の作業以上に、嫌な人と一緒にいることの方が苦痛だったんです。
今は「住みます芸人」の仕事の一環として農業もしていますが、農業は他人と関わらず自分ひとりでできるので、これも自分に合っているのではないかと思っています。
――大阪から東京に進出した理由のひとつに、仲の良かった芸人仲間と仕事がしたかったからというのもありましたね。ですが、山形に移住してからは芸人仲間とは離れ、農業を始めて、『脱・東京芸人』も出版して……東京にいたときに比べると前進している印象です。
芸人としてのプライドや固執しているものから脱却できたことで、自分の殻を破れたんだと思います。それと、芸人仲間との距離が離れたことも大きかったと思います。
東京にいたころは、仕事帰りに芸人仲間と居酒屋に集合することが多かったんですよ。いつでも友だちとお酒を飲める状況に居心地の良さを感じていましたが、それと同時に惨めさも感じていました。彼らが芸人としての仕事を終えた後に作業着を着たままアルバイト帰りに合流するのですから、しんどいですよ。
山形では、仕事帰りに気軽に居酒屋に出かけることはできませんが、友だち同士での馴れ合いがなくなったことが、結果的に良い方向へと転びました。惨めさから解放されたことが自分自身を成長させるきっかけとなったのかもしれません。
転機は自分が次のフィールドに進むための決断
――東京芸人から地方芸人へと活動のフィールドを変えたことで、目標への変化がありましたか。
このあたりは難しいですよね。現実的に物事を考えることができる年齢になったので、さすがに今は「ダウンタウンみたいになりたい」とは思っていません。でも、東京のテレビ番組に出演することを諦めているわけではありません。今も東京のテレビに出たいと思っていますよ。
そのために、山形ならではの話題性をもっと強めていくとか、どういう活動をすればもっと注目されるのかを模索しているところです。
仮に辛くて仕事を辞めたとしても、あるいは活動拠点を移したとしても、それは自分が次のフィールドに進むための決断です。紆余曲折があったからこそ今の自分があります。
どんなに過酷な道でも、それは通らなければいけないチェックポイントなのだと思うんです。誰にどう思われようが、自分自身を更新し続けていけば次のページは開けます。
――いろいろな経験をしているからこそ、今の本坊さんがあるのですね。最後に、今後のキャリアプランを教えてください。
今は山形で農業をしていますが、これは東京の芸人にはできないことです。せっかく山形に移住したのだから、ここでしかできないことをフックにして、今後の仕事に繋げていきたいと思っています。
これまで僕が育てた野菜を地域の企業と協力してふるさと納税の返礼品にしたり、農業体験とお笑いライブを融合させたイベントの開催を実現することができました。
でも、長いスパンでの目標やプランについてはまったく想像がつきません。東京に戻るかもしれないし、山形に住み続けるかもしれない。あるいは他の別の場所に移り住んで活動することになるかもしれません。
今は自分自身を「更新」し続けるためにも、「目の前にあることを一生懸命にやっていく」という気持ちで頑張っていきたいと思っています。
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会社が何もしてくれない…がすべての元凶。ソラシド・本坊元児が脱・東京で学んだキャリアを「更新」する術
【プロフィール】
本坊元児●1978年生まれ、愛媛県出身。2001年、相方・水口靖一郎とソラシドを結成。上京後、下積み時代のバイト生活の様子がTwitterで話題となり『プロレタリア芸人』(扶桑社)を上梓。2018年、住みます芸人として山形に移住。近著に『脱・東京芸人~都会を捨てて見えてきたもの』(大和書房)。
取材・文=小林ユリ
取材=山田卓立
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