「仕事における自分の価値」は、他の誰でもない“自分の物差し”で決めていい

うれしかったり楽しかったり、あるいは悲しかったり苦しかったり。「はたらく」とはそんな瞬間の積み重ねです。そして、その一瞬一瞬の連なりが、人生を彩っていきます。この連載では、各分野で活躍している人に「はたらくこと」についてのエッセイを寄稿してもらいます。第8回の寄稿者は、38歳でエンジニアからライターに転身し、「路線図マニア」としてメディアにも出演する井上マサキさんです。

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今の仕事を始めたのは38歳のときだった。

エンジニア系の取材で「実は僕も元エンジニアなんです」と自己紹介すると、理系のライターさんって珍しいですね、と驚かれる。さらに「新卒からIT企業に15年勤めてて」と続けると、その驚きに疑問が混ざる。どうしてライターになったんですか?

そのたび「ちょっと体を壊しまして……」と答えていた。IT企業には激務のイメージがある。「あ~(察し)」という感じになって、ふんわりと会話は着地する。そして心が少し痛む。ウソをついてしまっているから。

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でもこの際、正直に言ってしまおう。壊れたのは心だった。ライターになるとは、思ってもいなかった。

「自分は何の価値もない」

前職は大手SIerで、主にソフトウェア開発に従事していた。手がけた仕事は、電話交換機や、テレビ会議システム、ID管理システムなど。携帯電話内のカメラ機能を担当したこともある。自分が開発に携わった機種を街角で見かけたときは嬉しかった。

炎上プロジェクトで長時間残業が続く日もあったが、ずっと激務だったわけではなく、さしたるトラブルなく進む日もある。まるで凪と嵐が交互に続く航海のように。

ただ、航海が続くにつれ、仕事のレイヤーは変化していく。ソフトウェアの設計や開発に手を動かしていた若手から、チームを率いるリーダーへ。そして、チームを束ね、船の舵取りをするプロジェクトマネージャー(PM)へと。

いま思えば、この変化を自覚できていなかった。入社して10年も経てば、PMとして予算管理や顧客折衝も担う立場になる。にもかかわらず、開発系の部署で炎上に翻弄されているうちに、視座が低いまま時が過ぎてしまった。さらに部署異動があり、そこでは自分よりもっと若手の社員がバリバリとプロジェクトを回していた。気づけば自分は周回遅れだった。

もう若手ではないから、周囲は失敗に厳しい。リーダーとしてなんとかプロジェクトを終わらせても、大小さまざまなトラブルの記憶が蘇り、達成感を得られない。前向きな挑戦を恐れ、やりたいことがなくなっていく。周囲で慌ただしく働く人たちは、自分をどう思っているのだろう。

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迷惑ばかりかけて申し訳ない、という気持ちから、じわじわと「自分は何の価値もない」と思うようになっていった。利益を生まない人間が1日中会社にいて、少しずつ電気代を削り、みんなが頑張った仕事から給料を奪っている。このまま転職したところで、何ができるだろう。消えてなくなったほうがマシじゃないか。

街を歩いていても、歩道に敷かれたタイルひとつに誰かの仕事を見て、お前は何か有益なものを残したのかと突きつけられている気がした。「世界は誰かの仕事でできている」と謳うCMに、自分は世界に何も貢献していないと落ち込んだ。

心療内科に通い、休職を3度繰り返す。上長から希望退職制度を勧められ、退職した。送別会など行われるわけもなく、15年間の会社員生活が終わった。

船は沈没した、と思った。

人生で触れてきたことは、全てライターのネタに

再就職に悩む自分に、ライターの仕事を提案してくれたのは妻だった。

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当時、自分のブログにiPhoneアプリのレビューを書いていた。誰に頼まれたわけでなく、完全な趣味だったが、そこそこのアクセスがあった。そういうのを書く仕事がクラウドソーシングとかにもあるよ、と。再就職が決まるまでのあいだ、何か少しでも足しになれば、という思いだった。

時間はあった。さっそくライター募集をしているメディアをいくつか見つけ、記事を書く。でもこの時は、ライターを生業にするなんて、全く考えていなかった。文章を書くのは苦手だと思っていたし、子供のころは読書感想文を原稿用紙3枚書くのも苦労した。

でもSEの仕事は、意外と文章を書いていたのだ。

ソフトウェアの設計書や、障害発生時の報告書などは、相手に正確に意味が伝わるよう書かねばならない。「ボタンを押すといい感じに動きます」では何も言っていないのと同じだから。

自分の感想を排し、説明すべき事柄を順序立て、誤解が生じぬよう言葉を選び、冗長にならぬようまとめる。知らず知らずのうちに、わかりやすく文章を書く訓練をこなしていたのだろう。

得るものなく沈没したと思った船が、少しだけ水面に顔を出した。

徐々に寄稿先が増え、エンジニア採用関連のライティングも請けた。このまま自己流ではいけないと、宣伝会議のライター講座に通う。そこで先輩ライターの「ライターは『生き方』そのもの」という言葉に触れて、ハッとした。

人生で触れてきたことは、全てライターのネタになる。

それから仕事の幅が広がった。テレビっ子で育ったから、テレビ番組のレビューが書けたし、育児休暇を取って子供たちに触れてきたから、育児の記事も書けた。眺めるのが好きだった路線図は、同好の士を見つけてイベントや書籍にもなった。

そして「元エンジニア」という肩書きは、理系の少ない業界では貴重なものになった。会社勤めの経験ですら差別化のポイントになった。ネクタイをして取材に行っただけで「ちゃんとしてますね」と言われたりするのだ(みんなどんな格好しているの……と思った)。

さまざまな偶然に助けられて流れ着いた「ライター」という海で、僕はまた小舟を漕ぐことができている。前職でお世話になった方、ライターを始めてから出会った方、そして支えてくれた家族のおかげであり、本当に感謝しかない。

自分を測る「物差し」

「自分は何の価値もない」と思っていた。消えてなくなってもこの世には何も影響がないと思っていた。

でもそれは、ある一定の範囲での「価値」でしかなかった、と今なら思う。物差しを変えれば、「価値」の解釈はいかようにも変わる。自分の場合、それがエンジニアからライターへの転身だった。

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もちろん、ライターというひとつの仕事のなかにも、さまざまな「価値」がある。共感を呼ぶエッセイだったり、バズるプロモーションだったり、骨太なドキュメンタリーだったり、物差しはたくさんある。このエッセイだって、「このレベルでライターとはね」という評価もあるだろう。

仕事はさまざまな物差しで測られる。そして意外と、自分がどんな物差しで仕事を測っているのか、自覚することは難しい。知らず知らずのうちに、他者が作った物差しで自分自身を測ってしまい、上だ、下だ、と比較してしまう。

もちろん、その物差しで最高点を目指してもいい。でも「自分はこれっぽっち」と落ち込むこともなくていい。

大小さまざまな物差しがあることを知って、測り直したっていいのだから。なんなら、物差しで測ることすら、ちょっとお休みしたっていいのだから。

コロナウイルスの影響で、世の中全体の物差しも変わりつつある。自分も来年の今ごろはどうなってるんだろう。オリンピックに出てたりして。いやさすがにその物差しには限界があるか。

文=井上マサキ
1975年生まれ。ライター。大学卒業後、大手SIerにてSEとして勤務。ブログ執筆などを経て、フリーランスのライターに。Webメディアや企業広報など幅広く執筆するかたわら、「路線図マニア」としてメディアにも出演。著書に『たのしい路線図』『日本の路線図』がある。@inomsk

編集=五十嵐大+TAPE

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